「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。)

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中森明菜「駅」( 竹内まりや 作詞・作曲 ) について。

 

カバーで歌われていた番組を、最近 いくつか観て、歌詞の中の「 私だけ 愛してた 」の意味が、私だけ ( が ) なのか  私だけ ( を ) なのかが気になった。

 

「駅」の歌詞の解釈について検索してみたら、プロファイリング的な推測が示されたりしていて、( 迷走と思える解釈もあったが ) 興味深かった。

 

作者の設定上は 後者らしいが、解釈上は どちらでも間違いとは言えないと思われる。

後者のほうが良さそうかなと思える面もあるが、それは、私にとって 元々そうあってほしいかな という 希望的?解釈 込みで、ということに過ぎない。

 

 

さて、" 私だけが " と解釈する場合、普通は、彼からの愛が無い ( 薄い ) ことが分かったため別れたり、あるいは、振られた時にそれを理解したりすることになると思われるので、今になって初めて分かるということについて、どのような事情があったのか 解釈しづらいかもしれない。

 

それに対して、彼の愛が信じられずに別れたが、私だけが一方的に愛していたのではなく、彼も私のことだけを愛していたということが、振り返って今になって分かるというのは理解しやすい。

 

ただ、前者の捉え方が否定されるわけでもない。

 

” 私だけを " と解釈すると、書かれていない主語 ( 主体 ) が入れ替わったようにも思えて、古文の解釈のような感じになってしまうかもしれない。

 

主人公が語っている文の主語 ( 一人称 ) は 省略しても分かるし、「 気づきもせずに 」が、私ではなく、彼が気づかなかったというのは、主語 ( 三人称 ) を省略していても分かる ( 内容から明らか ) が、彼が私だけを愛してたという意味として、主人公以外の主語を省略しているとするのは、避けるほうに分があるかもしれない。

 

「あなたの」「気持ち」と一緒に括られた中での省略ととると、名詞一つと節とでは、分の構造上、釣り合いが悪いとも言えるし、倒置で繋がっているのであれば、元の文に戻したら綺麗に納まりそうなものだが、「初めて」に対して「痛いほど」が不自然になるので、一文の倒置ではなく、付け加えになると思われる。

 

「... 愛してたこと  "を" 」ではなく「...も」なので、「あなた(彼)の気持ち」に並立した内容として、彼の愛も分かる というのだと、気持ちとは区別した愛を、事実のように捉えて語っているようにもなる。

 

「愛してたこと」を気持ちの一部分ととるとしても、「初めてわかるの」「痛いほど」( わかる ) を挟んでいるため、離れ過ぎ、分割が不自然、とも考えられる。

 

彼の気持ちの中で、その一部分として、愛について付け加えるというのだと、恋愛関係が焦点となっている文脈中の、しかも 核心部分、焦点なのに、後から付け足しのような形で補足するというのでは、不自然で苦しい解釈とも 考えられる。

( ただ、想いを語っているだけなので、論理をオブラートに包んで解釈するとすれば、後に添えることによって、核心について印象的な効果を もたらしていると捉えることもできるのかもしれない。)

 

一方、” 私だけが ”と解すなら、彼の様々な気持ちと 自分の愛の 並列で捉えられ、それらが分かるということで、釣り合うように思われる。

 

( 私が私を愛しただけだったとか、彼のことを本当に愛していたのは私だけだったと解釈する余地もなくはないが、言葉や描写が足りていない面がある。

また、「痛いほど」が、後に掛かるという解釈は、無理がありそうだ。

痛感するという言語感覚を遮断して、彼が自分のことを痛いほど愛していたと表現しているとするのは違和感があるし、彼の愛が自分にとって痛いというのでもおかしい。)

 

 

2年間で変わった「彼のまなざし」については、他の要素も含めた雰囲気全体を まなざしで言い表しているのだろうが、喜怒哀楽なら まだしも、主人公との関係性や 対象者の現在の状況までも 読み取るというのは、判断する側の主観によるところが大きく、整合性を保つための つじつま合わせが主眼になったりして、不自然に感じられるようになる可能性がある。

 

" 私だけを " の場合、以前の ( 私だけを愛していた時の ) 彼だったら気付いてくれそうなのに、気付いてくれないからとか、以前の 彼の表情と比べると、今が幸せそうには見えないから ということになるのかもしれない。

 

" 私だけが " の場合、逆に、以前の彼の表情・雰囲気と比べて、今のほうが幸せそうに見えたことで、以前の彼には、愛していると言える程の相手が いなかった ( 主人公も対象外だった ) のだと、今になって初めて分かったとか、多少は 分かっていたが 確信したのが今になって ということだったりして、その場合、後で出て来る「... 後ろ姿が やけに哀しく 心に残る」のは、哀しい彼の後ろ姿が心に残るのではなく、幸せそうな彼の姿が、主人公の心には 哀しく残ってしまう ということになるのかもしれないが、「うつむく横顔」という表現からは、幸せそうに見えたというのは無理があるかもしれない。

沈んだ感じの彼を癒すことが出来ない自分であるということを痛感したのかもしれない。

( 彼が愛する対象が 自分ではないことを再認識し、消えてゆく 彼の後ろ姿が 主人公の心には 哀しく残ってしまう ということになるのだろう。 彼の不幸を望んでいるわけではないので、シャーデンフロイデとか恨みとかではなく、「哀しく」なのだろう。)

 

無理な解釈であるとすれば、彼のまなざしについては、主人公が変えた髪型との並列であり、以前の彼の表情や雰囲気との違いから 現在の二人の隔たりを表現しているにとどまる描写であり、彼の愛の対象までをも読み取ろうとするのが、行き過ぎなのだろう。

 

 

「うつむく横顔」は、会話をしている状況で うつむいているわけでもないので、単に 下を向いて 何か ( 今ならスマホかもしれないが、当時だと、新聞・雑誌・資料とか ) に 視線を落としているだけの可能性も高いと思われるのだが、ただ、主人公にとっては、その横顔を見ていたら、様々な思い出が よみがえり、涙が あふれてきそうになったということなのかもしれない。

 

相手が 身近なアイドル的な存在で、自分の想いが強かったなら、私だけ「が」愛していたということになるかもしれない。

こちら側で想いを断ったわけでもなく、ただ 時が過ぎてゆく。

相手側からの好意はあったとしても、私だけ「を」を愛していたわけではないということを分かっていたが、ただ、後になって 実際に見掛けてしまったときに 痛感してしまうということなら、あるかもしれない。

あるいは、少しは好意を持ってくれていたのではないかと思っていたが、全くの片想いに過ぎなかったことを、時の経過とともに理解したとか。

 

「今になって」「初めてわかるの」は、その瞬間 ともとれるが、今頃になって などとも ともとれるので、二年前との対比として、歌われている場面の日より もう少し前からも含めた現在形ともとれそうだ。

 

 

さて、世上の 様々な解釈に 矛盾があったとしても、登場人物は、現実の人と同じで 必ずしも 正しく 推測・推論が出来て、論理的・語学的に 整合性を保って語るとは限らないとも 考えられるため、結局のところ、聴き手のイメージや どういう要素を優先するか などに 委ねられている ( 開かれている ) ということになるのではないだろうか。

経済学でさえ、合理的な人間・完璧な人間 のような 想定は、見直されて 久しいのだろうし。

( 試験問題などの場合には、記載内容が正しいという 暗黙の前提が必要なのだろう。)

 

 

初めて聴いたのが いつだったか、そして、中森明菜と竹内まりや どちらだったのか、記憶がない。

(その当時も、上記解釈の違いが気になったような気もするが、二股的に受け取れなくもない心情に あまり共感できなかったのかもしれない。)

 

竹内まりやの歌唱 ( アルバム『REQUEST』等 ) は、自身の作詞作曲であるし、言うまでもなく歌声に魅力があり、サビや間奏での弦楽器の美しさと調和していて、声量も十分で聴きやすい。

 

一方で、中森明菜に向けて創られた作品であり、明菜の歌唱 ( アルバム『CRIMSON 』) は、優しく 儚く 憂いのある歌声の美しさが 秀逸である。

( 歌声が 演奏より小さい感じなので、聴く側の思い入れが必要なのかもしれない。作品や対象に対する批評・採点としてではなく、歌や歌い手の想いを感じ取ろうとして耳を傾けることで得られる深い味わい。明菜や収録されるアルバムの世界に合わせて生まれた楽曲であるため、明菜の歌唱を否定すると、「駅」の良さを減じて受けとめることになる。)

 

( 二年の時の経過だが )「昔 愛してた」「懐かしさの一歩手前」「苦い思い出」として、現実に過去の思い出の一つになりつつあるのかもしれないが、疎遠になっている現実に合わせているだけで、心の中では過去になっていないように思われ、明菜の歌唱では、今も変わらぬ その想いが 一層強く感じられ、情感深くて とても良い。

 

 

竹内まりやの歌唱でも、( 歌詞と基本の旋律は同じであるため ) 一時的によみがえった感傷や追憶から覚めて 未来に目を向けていく というようなものではないように思われる。

 

 

「こうして元気で暮らしていることをさりげなく告げたかった」というのは、彼が心配しないように、自分は大丈夫だと、切なくも 装って見せようとしたが 出来なかったということだろう。

 

「苦い思い出」が無い、別れたことの痛みが 自分に残っていない ( あるいは 元々無かった ) のであれば、隣りの車輌に乗ったりせずに 伝えていても良かったのだろうし、彼が私だけを愛していたとしても、現在の彼が 気にしていなさそうだったり、単に主人公自身のプライドを回復するための機会に過ぎなかったのだとすれば、切なくて情感溢れるような旋律を伴なった抒情詩?に合わなくなる。

 

「さりげなく」というのは、あてつけにならないように ということだったのだろう。腹立たしさや恨みが意識されると、切ない気持ちからは 遠ざかる。

 

さりげなく マウントを取りたかったとか、ちょっと見返したかったとかの心情であれば、苦い思い出は アクセル要因になるはずだが、その思い出の内容は ブレーキ側で働いている。

 

また、~がいなくても 元気で暮らしている といったニュアンスの言葉は、いたほうが良いということを 言外に 前提として 発せられることのほうが多い と思われる。

 

たとえば、単身赴任や遠距離恋愛で、いなくても元気で暮らしていると伝えられたような場合、少しは寂しがって欲しいと思う人もいるかもしれないが、寂しいことは共通認識の下で、元気さと寂しさは別のこととして、ある意味 すりかえていたり、言葉が足りなかったり、というようなことが普通だろう。

 

そういう部分が無くて、いなくても元気だというニュアンスを伝えるというのは、通常は考え難く、言葉を選んだとしても、いやみ・皮肉・仕返しの度合いが高く、この楽曲に馴染むものではない。

 

一般に、元気で暮らしているといったことを 敢えて伝えようとすることは、心配しなくても大丈夫だということを伝えるための、相手を慮ってのことと言えるだろう。

 

 

さて、一般に、現在 親しい相手が 恋愛的に一番好きになった人とは限らないのだろうし、どちらの歌唱でも、その場限りの心の揺れと捉えるより、昔 愛してた と言いながら 今でも深く愛している と受けとめるほうが、胸に深く迫って来るように思われる。

( 歌詞の中には、「胸が震えた」とか「こみあげる」「思わず涙 あふれてきそう」「痛いほど」などの表現がある。)

 

また、「やけに哀しく」の「やけに」は、表面上の認識と 心の中に仕舞っていた感情 ( 想い ) との齟齬を示しているのではないだろうか。

 

そして、後ろ姿が哀しく心に残るのは、私だけを愛していた彼の真意を理解せず、彼を悲しませてしまったであろうことなどに対する自責の念や、自分にとって大切な対象を失うことになってしまったことについての後悔があるからと思われる。

「を」でも「が」でも、彼への想いが残っている心の投影と解される。

 

(「待つ人」は、生活を共にしていたり、親密な関係の人なのかもしれないが、私の希望的解釈としては、そうでない余地を残したい。)

 

雨が やみかけ、日常に戻りつつも、心は残されたまま なのだろう。

「ららら ... 」

哀愁に包まれる。

( ここでの 声の質・トーン・大きさの違いは、聴き手の 作品全体に対する印象に 影響を与えている可能性もある。ただ、ここの違いだけではなく、全体を通しての テンポが 少し違うだけでも、感じ方に 影響が出たりするのかもしれない。)

 

 

音楽は、感じ取るだけで 十分良さそうなのだが、解釈ということになれば、 論理や経験則を無視できないだろうし、また、 作者側の意図と異なることになるとしても、致し方ない。

 

現実の発言・評論・日記・ノンフィクションなどであれば、嘘やごまかしなどは別として、本人の説明に合わせて受け留める必要があるが、作品や登場人物は、作者から離れた対象であり、作者も 第三者である。

 

それが認められないと、たとえば、国語の試験の読解問題で、正解を 作者に確かめたものでなければ 出題できないことになるし、確認したとしても、作者と出題者側しか知らない "知識(の)問題" になってしまう。

論理的におかしい内容でも正解になるとすれば、言葉のやりとり・約束・契約・締約なども当てにならなくなり、社会が混乱する。

 

私だけ (が) と 私だけ (を) の どちらか一方だけが正しいとされるなら、理論的には、正誤・選択の問題として出題できることになるが、どちらも成り立つのであれば、小論文の題材には なるとしても、正誤・選択の問題としては 出題できないということになる。

( 著作権法をクリアしたとしても、音楽が影響するのでは 通常の国語の試験では 採用できないなのかもしれない。曲を含めずに 歌詞だけで判断するという条件付きになるのかなど、よく分からない。過去に 何かの曲の歌詞が出題された例は あるのだろうか。)

 

 

状況としては、片想いなのかどうかといった 主人公と彼の想いの強さ・程度、誰の主観的な認識なのか あるいは 客観的な事実なのか、それぞれ過去と現在、国語上の論理関係、物語の流れとしての自然さ、更には、認定した内容に対しての聴き手自身の感想などを含め、掛け合わせで 場合分けが 可能であるため、ストーリーの解釈も 様々になるのだろう。

 

ただ、この「駅」という楽曲に於いて、切なさや哀愁は 根幹であり、そういう面で「私だけが」も「私だけを」も両方 成り立つのであるが、主人公の想いや切なさを 軽く扱う方向になる解釈は、歌詞や 基本の旋律に合わない。

 

それに、映画「風と共に去りぬ」の スカーレット・オハラが立ち直っていくような心情まで、この楽曲の中に取り込んでしまうのも 無理がある。

( 映画の原作を読んでいないが、どちらも 違和感なく 描かれていたはずだ。)

 

また、確か、映画「アンタッチャブル」で、ロバート・デ・ニーロ 扮する アル・カポネが、オペラを観て 涙しつつ、彼に歯向かう者が 命令通り? 殺害されたことを知り、笑みを浮かべる というシーンがあったと思う。

 

そのような おぞましさが あるわけではないが、ちょっとした感傷から すぐに現実の充足感に立ち返っていくというような解釈には、抵抗感がある。

 

「駅」では、主人公自身の出来事として、強い想いが 随所で 表現されているし、繰り返しの 同じメロディーに乗せながら、主人公の側の心の移り変わりを描写したと捉えるのは、不自然と思われる。

 

「心に残る」とあるので、その後すぐに持ちが切り換わるというのはおかしい。

 

 

( 竹内まりや ) セルフ・カバーのプロデュースは、楽曲をヒットさせて、多くの人々の心に届けられることになった点で 功績があるのだろうが、そのテンポやトーンなど によって、「駅」で描かれている世界、主人公の切ない想いの強さや、終わりのフレーズから醸し出される余情について、聴き手が 異なる解釈に傾きがちになるとすれば、残念である。

 

歌唱の違いというより、 リズムを刻む音が強めに出されたりして、雰囲気が変えられているように思われる。(ドラマで、セリフに被せられる効果音のように。)

 

間奏などでの 憂いのある 弦楽器の音色などは とても美しく、「駅」の世界観に適っている一方、軽めに傾けた 軽音楽的な部分は、使われている言葉に 合っていない。

楽曲自体が、矛盾を内包しているように思われる。

そのため、意識と無意識の間のような領域で 聴き手が混乱し、違和感を覚えるのかもしれない。

進むにつれて、リズムで せかされているような感じが強くなるのは、残念である。

 

ただ、曲調を 軽めにしようとしても、切なさが強い 歌詞や旋律に 合わなくなるため、敢えて無視する アレンジでなければ、ある程度の範囲内には 収まるのだろう。

 

好みは 人によって違うので、軽く解釈するのも自由だろうが、軽いほうが 正しいわけではない。

自分に重ね合わせて、一時的な感傷と捉える人も多いのかもしれないが、歌詞と (短調の) 基本の旋律は、そのようには なっていないのである。

 

終わりの情景描写でも、同じサビ、同じ旋律のままである。

( そのため、先述した「風と共に去りぬ」のスカーレットの立ち直りのようには なっていないのである。)

 

 

既に 触れたが、「ららら ... 」は、余韻・余情を補っている。

直前の情景の描写では 主人公の気持ちの切り換わりが暗示されているのではなく、日常に戻されることと対比・対照的に、心残り・切なさが表現されていることを 読み取る必要がある。

 

雨もやみかけ、ありふれた夜がやってきても、心は取り残されたまま なのである。

 

主人公と彼の、その後のことについては、この楽曲から 聴き手が 想像を巡らす 別のストーリーである。

 

自立した強い女性像といった趣旨も、歌詞の内容からは逸れている。

 

 

私としては、主人公の想いが軽いものでは、好きな曲に入らなくなる。

 

 

切なさや哀しさを、原曲自体が 少し軽めに表現した楽曲として、どのようなものがあるのか分からないのだが、たとえば「木綿のハンカチーフ」( 松本隆 作詞・筒美京平 作曲 ) は、手紙のやりとりのような歌詞で、気持ちの違いや推移があり、全体を重い曲調にしてしまっても不自然になりそうで、絶妙な旋律なのかもしれない。

( ただ、彼の気持ちは変わっても、主人公の気持ちは変わっていないのである。)

 

そのようなこととは違い、オリジナル曲 自体が、基本の旋律に対して、曲調・アレンジで矛盾を孕ませて 調整するというのは 疑問に思われ、わざわざそうするのなら、主題に合うような基本の旋律にしたり、歌詞を変更すれば良い。

基本の旋律や歌詞の世界観を、他者が 曲調・アレンジで 軌道修正した楽曲は、スタンダードではないと考えられるのである。

( 作者サイドと言えども、明菜向けに出来上がった楽曲を、まりや側に引き寄せてしまうと、作品の世界と表現との間に ずれが生じる。

まりや版は、序盤を過ぎると 少し強過ぎな面が出てくるのかもしれない。

明菜版では、淡さ・儚さも感じられる。)

 

 

さて、明菜の解釈が 実際にどうだったのか 分からないが、( これまでに述べてきた理由から) CRIMSONで表現されている「駅」の世界が 正統であり、( アルバムに合わせた要素を考慮するとしても ) スタンダードであるということは 確かである。

アコースティック・バージョン など、アレンジを変えたものは、明菜 本人による カバーと言えるだろう。

 

私のパソコンは、動画などで 音楽を聴くことを考慮したものではないので、CDを 普通に CDラジカセで聴くだけで、殊に「CRIMSON」は 良くなる。

( 検索上位の動画が、本人歌唱に似たカバーの場合もあるようで、事実に基づかない比較・論評にならないよう注意が必要だ。)

 

イントロから ギターの音色もよく分かるし、何の楽器か聴き分ける能力がないので定かでないが 、ごく一部に入っている コーラス?にも気づくことができ、演奏も 美しく感じられる。

 

 サビで、(「駅」より更にずっと以前の ) ムード歌謡を感じさせるような音色も入っているのだが、再生に問題があると 感じられない場合もあるのかもしれない。

( ただ、「駅」が、演歌と評されたりするのは、歌詞や旋律だけでも、昭和のムード歌謡を感じさせる要素があるからだろう。)

 

その音色で思い出したのは、( ムード歌謡の範疇か分からないが ) 由紀さおりの「夜明けのスキャット」( 山上路夫作詞・いずみたく作曲 ) 。

 

あらためて その歌詞の部分に目を通してみたところ、( 抜粋にとどめるが ) 「愛し合う その時に この世は とまるの」...「時のない 世界に」...「夜はながれず 星も消えない」「愛の唄 ひびくだけ」...「愛し合う 二人の 時計はとまるのよ」... 。

 

愛は永遠であるという想いと、そうでない現実の哀しさは、儚くも 美しい。

それは、実ることのない恋愛でも、「駅」でも。

 

 

私はメロディー重視で 何となく聴く感じが多く、そこそこ長く?生きてきた割りには、歌詞を確かめることは、あまりなかったかもしれない。

( 言葉に集中し過ぎると、メロディーを味わいにくくなってしまうからか。)

 

「守ってあげたい」( 松任谷由実作詞・作曲 ) を、歌詞を気にしながら聴いたら、自分に味方してくれるような感じもして、涙さえ 浮かんできた。

 

自分が好きな 太田裕美や松田聖子の楽曲なども 、素晴らしい世界は、より深いものであったようだ。

 

 

「駅」に関して、聴く、考える、書き 加える ( 改める )、時間を置いて 気付く、などが 繰り返し 続き、 今の私の気持ちとしては、( 論争的な部分について )

今より もっと、ずっと前から、明菜の味方に なっていたかった気がしてしまう。

 

自分の人生の中で 一番好きな歌 というのは 決められないのだが、中森明菜 が歌う「CRIMSON」の「駅」( 竹内まりや 作詞・作曲 ) は、自分にとって 無くてはならない歌の一つ となった。

 

ただ、人を恨んだり、責めたりしても、幸せには なれないので、「駅」という楽曲を再認識 出来たことに感謝したい。

 

 

ところで、竹内まりやの歌唱のほうが良いと思う人の中でも、「駅」が自分にとって、かけがえのない一曲とまで思える人であれば、その良さの中に、明菜的な良さの要素を感じ取ることができるのではないかと思うのだが、どうだろう。

 

一方、相対的に良いと判断するだけの人や、一時的な感傷を歌ったものと捉える人にとっては、かけがえのない一曲にまでは ならないのではないだろうか。

 

作品の評価としては ( マイナス評価も、ありえるが ) 、動的な作品であれば、その人の心を大きく揺さぶるか、心に深く残るか、静的な作品であれば、美しさや穏やかさなどについて 作品を大切に思うか などの面で、絶対評価のレベルの高さが 重要だと思う。

 

功利主義だと、低めのプラス評価でも 多数であれば、少数の最高評価より善いことになる可能性もありそうだが、良さを理解した人から 最高に評価されている作品より、最高とまでの評価は 前者 程には 受けていない作品のほうが、より善いというのであれば、変な話だ。

 

少し低めの評価でも、購買などに繋がるレベルであれば、商業的な面では良いのかもしれないが、芸術作品の正当な評価とは 違うだろう。

 

また、高い値段がついて ( 希少価値 ) 、それを買うかどうか ( 物欲や 公的な所有・保全の目的などと、資金状況との照らし合わせ ) というのも違う。

 

公的な認定が 絶対でもないし、専門家の見解が 当てになるとも限らない。

 

外部の評価に従って作品を味わっても仕方ないし、社会的な評価が不当と感じられれば 指摘するのも良い。

 

 

さて、楽曲のカバーは、カバーする歌手の歌唱を魅力的に思う人達がそれを求めることで支えられている部分が大きいのだろう。

 

岩崎宏美によるカバーのテンポは、ゆっくりで 良いのだが、回想に近くなるようにも思われる。

 

少し 心のゆとりや 客観な視点が感じられるようでもあり、主人公の回想か、美しい語りというか、物語の語り手としても意識される。

 

歌声が美しく、音程も 多分 楽譜通りの確かさで、ピアノでメロディを奏でているような安定した美しさが感じられる。

 

一緒に、主人公の心に寄り添いたい気持ちになるが、明菜のほうは 主人公 本人であり、目の前にいるように感じられる、その主人公を、私が 彼になって 抱きしめたくなる ( 愛おしく思う ) 。

 

 

明菜は、昨年デビュー40周年を迎えたそうだが、ぼやぼや生きてきた私は 、30周年記念の「BEST COLLECTION - LOVE SONGS & POP SONGS - 」を買った。

 

その中の「駅」は、サビ以外での歌声の音量を 大きくしたりして、少し聴きやすく調整しているようにも 思われる。

別の収録なのかどうかまでは、細かく聴き比べていない ( 私には 出来ない?) ので、分からない。

 

明菜の声が 聞き取りにくいから 嫌だという人に、お勧めなのかもしれない。

 

 ただ、クラシックなど、出だしの音量が小さかったり、強弱の差が大きい音楽作品もあるので、歌詞は別途確認して、楽曲全体として受けとめれば良いと思う。

 

 

 私は、オリジナルである「CRIMSON」が良い。

レコードに針を落として聴いたり、ネット由来の再生を 良好なオーディオ機器を伴なって 聴くことができないので、そちらの感じは分からないのだが、現物のCDで 普通に 聴いて、優しく、美しい。

パソコンでも、音源が確かなもので、スピーカーやイヤホンに問題が無ければ良いのだろう。

 

CRIMSON (+1)【オリジナル・カラオケ付き】<2023 ラッカー マスター サウンド> (2CD) というのが 発売される予定らしい。

「原音に限りなく近く、アナログレコードの持っているふくよかなサウンドを再現!」とのことなので、楽しみだ。

 

 

まりやのデモテープというのを、私は もちろん聴いたことはないが 、たとえ 明菜が それをスタンダードだと思ったとしても、明菜の世界に照準が当てられ、明菜に委ねられた作品である以上、明菜の中で生まれた表現が スタンダードなのである。

 

 

聴く時に考えると、没入できなくなってしまうので、考えを巡らせた後は、自分の想いに添って 曲の世界に浸ろうと思う。

 

 

 

歌詞の一部の受けとめ方によって、全体としての 主人公の切ない想いを 聴き手に誤解されてしまうことがあるという点では、テレサテンの「別れの予感」( 荒木とよひさ作詞・三木たかし作曲 )も 同じかもしれない。

 

「あなたをこれ以上愛するなんて わたしにはできない」とサビ?で歌い上げられているので、否定形の表現に引っ張られてしまいそうだが、直前の「海よりもまだ深く 空よりもまだ青く」は、その前に掛かるのでは 不自然な比喩になってしまうし ( 一番では 信じることの比喩にならなくもないが、二番は無理だろう ) 、単独では唐突過ぎることから、後に掛かって、( メロディー上は、転調?によって分断されている感じになっていたり、リフレインでも切り離されたりしているが、それは楽曲上の制約?からであって、意味の上では ) ひとまとまりで 最高レベルの愛を表現していると考えるべきであり、関係を断とうとしているわけではないと解される。

 

題名の「別れの予感」は、必ずしも現実的な推測の正しさに裏づけられた表現ではなく、主人公の切なさを表現しているにとどまると解するのが良いように思われる。

( ここも多少 私の希望的解釈 込み。 ハッピーエンドが良いのだが、仮にそうならなくとも、両想いではあってほしいという。)

 

 

それぞれの人が、自分でその曲を好きになれるように解釈すれば良いと思う。