*ネクスト・バッターズ・サークル*
高校野球を見ると、いつも思い出がよみがえり、画面よりも思い出のほうに引き込まれてしまう。
良き思い出や、そうでないことにも。
3年生、夏の予選。
9回裏・2死。
ランナーは、2,3塁だったか。
ネクスト・バッターズ・サークルで、片膝を立て、行方を見守っている。
打者が出塁すれば、同点・逆転が、自分に掛かってくる。
その時、実力を発揮できそうもないレベルの、極度の緊張感に襲われた。
その頃、ルーティンということは、まだ世間で言われていなかったが、打席に入れば、足元をならしたりする一連の所作で、心が落ち着くことには気づいていた。
ただ、ネクスト・バッターズ・サークルで、それ程までの緊張をしたことは無かった。
後から考えれば、打席に入る前からのルーティンも必要だったのかもしれない。
物事や状況をどう捉えるかは、全く自分次第だ。
緊張し過ぎれば、成功率を下げるだけだろう。
緊張する場面でルーティンが無くても、自分にチャンスが回って来いという気持ちや平常心に持っていけるように、イメージ・トレーニング(その言葉も当時は無かったが)をしておきたかった。
結局、打席は回って来なかった。
重圧に負けたままだった。
打席に入らず、重圧から解放されたのは、残念だ。
打席に立てば、適度な緊張感にもっていけたはずだと、自分を信じたいのだが、確かめることは永遠にできない。
小学生の時に、都会の小さな池では普段は見掛けないオニヤンマが目の前でホバリングして、緊張で虫取り網を空振りしたことがあった。
その時、オニヤンマはもう一度来たのだが、また空振りしてしまった。
捕まえる能力も自分にはなかったのかもしれない。
そして、彼は飛び去っていった。
悠然としていた…ような気がした。
(捕まえても、その命を大切にすることはできなかったので、逃げられて良かった。)
重圧に負けたことを、その後の入学試験などで、少しは挽回できたのだろうか。
しかし、高まってしまった緊張のレベルとしては桁違いで、比較ができないことなのかもしれない。
全力で向き合ったことについての緊迫感は、貴重な経験だ。
人生に彩りを添えてくれた、ほろ苦くはあっても、ありがたい思い出のひとつである。