性善か性悪かということは、善悪の基準が価値判断によって違うので、認定不可能である。
普通に考えれば殺人が悪なのは明らかだが、戦争であれば国のために戦うということで正当化されたりする。
必要悪という捉え方をしても、必要なのに悪なのかという疑問が出てくる。
テロリストなのか英雄なのか、聖戦なのかは、考え方・思想次第である。
被告人が国外に逃亡するのは悪だが、権利保護が不十分な制度下から逃れることは善であると本人は考えるのかもしれない。
主観的に悪いと思わなければ何をしても悪ではないのであれば、そこに社会道徳・社会関係は存在しない。
客観的には身勝手な人やいい加減な人が何も責められずおかしい。
仮に一つの思想の立場に立つとすると、その思想を持って生まれるわけではないであろうから、性悪とも考えられるが、知らないだけでは性悪ではないとも考えられる。
学んでその思想を身につけるなら、生来の善・悪に意味はなさそうだ。
その思想を受け入れられない場合に性悪が問題となるのかもしれない。
制度などについて性善説によることはできないということが一般に言われるが、その場合でも実際には、生まれ持った性質が問題になっているわけではなく、現実に生きている人々の現在の傾向が問題になっているに過ぎない。
刑罰法規が必要なのは、悪いことであると社会によって判断される行為が、実際になされるからであって、人が生来的に悪なのか善なのかとは関係ない。
ちなみに匿名で、誹謗中傷など悪行がなされる場合もあれば、寄付などの善行がなされる場合もあり、性悪だからという前提で匿名性を悪とすることもできない。
社会では一般に善悪の判断がなされるので、特定の思想がある程度強制されていると言えるのかもしれない。
自由社会といっても、その自由という思想を受け入れられなければ、自由を強制されるということになる。
自由を認め合うということが強制されて良いなら、お互いに思いやりを持つということも強制されて良いように思えてきた。
思想によって罰せられるべきではないという点では、どちらも強制されてはならないが、自由を認め合うことや思いやりに基づく様々な政策は、強制になる場合もある。
他者との関係で、自由は無制約ではありえない。
制約が不十分だと、自由が勝者だけのものになる。
自由主義を肯定するときに義務は表に出て来ないが、実際には義務を伴なうのであり、相対関係では、他者の立場・視点を意識する必要がある。
それは、既に思いやりの一部である。
思いやりを目先の自己利益の範囲だけにとどめると負のスパイラルに陥るため、十分な思いやりに基づく政策が必要であり、結局、人々にとって十分な思いやりが不可欠であるということになる。
自由主義社会といっても様々な規制があるが、規制緩和が何でも良いというわけではない。
銃を持つ自由より、銃を規制したほうが良いだろう。
自由と平等をコストで比べると、自由を確保するためにもコストは掛かるだろうが、自由は放任が主であり、平等のほうがコストが掛かるのだろう。
自由だけで済むなら、自由を認め合うことを強制すること以外は何もしなくて済む。
ただ、公正さは、自由にも平等にも係わる。
公正さや平等は、何が公正かの判断や所得・富の再分配に人が関与する。
人の営為には誤りや不正も出てしまう。
財政が破綻すれば国を維持することができないのだろうが、経済的な繁栄がすべてではないので、社会主義の問題点は、独裁体制や思想的な弾圧にある。
政策を修正できるかどうかということにも関わる。
一方、経済的繁栄は環境破壊にもつながっているので、手放しで喜ぶのは無責任と言える。
さて、だいぶとりとめもなくなってきて、表題に合致してきたところで閉じるとしよう。