自粛疲れは、協力してきた人のせいではない。
協力できるのに協力しなかった人や、十分な協力がなされるように整えなかった政治の責任である。
日本人の令和といっても、感染を短期間で抑え込むのに十分な域にまでは至らないことは、経過観察の途中で見て取れたはずだ。
たとえば、たばこの害や迷惑が言われて何十年経っても、受動喫煙の問題は続いてきた。
協力する人が多くいたとしても、協力しない人がいて問題なら、強い規制が必要であったはずだ。
知的・客観的に確かな思いやりの観点からは、協力しない人の自由ではなく、そのために亡くなる命や、医療現場、協力延長を余儀なくされる人への思いやりが優先される。
対処についても、その思いやりに基づいて十分な知性が使われる必要がある。
専門家会議で、接触の8割減が求められた時点で、あるいは途中経過でも、自粛だけでは無理だと判断して、より強い規制を迅速に打ち出していくのが政治の役割である。
専門家会議の中に経済の専門家を入れるべきだという見解があるが、経済面まで含めた総合的判断は政治判断の領域である。
対策による不自由への不満を感染症対策に直接影響させて対策を鈍らせるべきではないし、逆に経済面からのお墨付きを考慮するかどうかということも政治判断である。
感染が抑制された状態で過去の新型インフルエンザのような社会的反応であれば、医療のひっ迫にまでは至らなかったようにも思われるが、感染拡大が現実なので、強い制限が必要とされているのだろう。
インフルエンザでも、喉の痛みにとどまらず気管支にまで違和感を感じるようなことも一般的にありそうだが、そのまま医者にも掛からず治癒を待つ人も多かったと思われる。
院内感染で医療がストップすることも、 近年のインフルエンザではなかったと思われる。
コロナウイルスがインフルエンザより危険度が高く、その差の分が社会的許容度に違いを生じさせるのかもしれないし、ワクチンの有無や対症療法がある程度でも確立されているかどうかでの不安感の違いによるのかもしれない。
過去に大流行した~風邪と呼ばれたものにも強毒性があったのだろうし、今後問題となる様々なウイルスでも社会に深刻な打撃を与える可能性があるのだろう。
長引けば、何もかもが苦しくなる。緩い手法でも、協力すれば負荷は強い。
長距離走であれば、全力疾走をすることはできないし、 長引く中で十分な手当てが必要になることは言うまでもない。
対処が不十分な中で宣言の解除に関心が集まっても、ぬかるみにはまってどうにもならないだろう。
再度の感染拡大の度に、抑制に時間が掛かる手法をとっていては、医療・学業・経済・社会への影響がより大きくなる。
強い規制がなされても、国民の理解がなければ有効度も下がるのだろうが、日本人の和が活きるのは、むしろそのような中に於いてであろう。
強い規制といっても、監視システムなどの導入ではなく、自粛や自主性を補助・補強するだけで済むからである。