敵基地攻撃能力は、制圧主義に足を踏み入れるものであり、平和主義とは相容れない。
敵とみなす姿勢も、前段階から平和主義を放棄するものである。
安全保障・防衛の議論になると、思いやりや客観性が無関係となってしまうようだ。
他国のミサイル開発が脅威と感じられるのであれば、政府が敵基地攻撃の意思や議論に言及することも、武力による威嚇に含まれると解すべきである。
敵基地攻撃能力の保有が法理論的に可能であるという見解は、主観的な防衛意識を絶対視し、日本国憲法や平和主義に反する考え方であり、誤りである。
反撃能力と言い換えても、戦力にあたらないわけがない。
他国に矛の役割をさせるのも脱法行為である。
防衛意識には際限が無く、ミサイルでも戦闘機でも、日本全土が不沈空母であると他国が被害妄想的に認識すれば、基地だけでなく、中枢・全土が攻撃・反撃対象と見なされうる。
敵基地攻撃能力保持可能論は、防衛・自衛のための他国のミサイル開発にとやかく言えない論理である。
他国領土内をピンポイントで攻撃できる能力を持つことは、抑止効果で装った、武力による威嚇である。
実際の場面での判断では、互いに疑心暗鬼になり、やられる前にやるということにもなるだろう。
盾と矛の関係上、互いの反応・対策が積み重ねられ、費用対効果の問題も解消されることはないだろう。
政府の見解がひと度広げられると、その間違いを修正できないのも問題だし、司法判断の中身が政治裁判所のそれに堕するのも司法の名折れである。