「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。)

281

自分の言動について、公正さに基づいて制御したり顧みたりすると、謙虚さにも、自己肯定にもつながることに気づいた。

 

謙虚さにつながることに気づくと、あざとくアピールできる可能性にも、ついでに気付いた。

 

公正さのほか、他人の利他的な言動を、根拠も乏しく偽善ときめつけるのは良くない。

 

利他的行動が利己にも結び付くことやそのアピール可能性が想起され、表情や振舞いから、それが読み取れてしまう場合もあるのだろう。

 

ただ、必ずしも その分析の正しさを検証できるわけではなく、思い込みである可能性も常にあるだろう。

( 思い出したことを色々と書きたくなって、ごちゃごちゃしてしまうが、裁判の経験者が、証人が嘘を言っているかどうかは分かると言っていたのをずっと以前に聞いたことがあるが、そんなに言い切れるのかと疑問に思った。)

 

 

公正さを意識する道筋には、自分を正当に扱ってもらいたいというアプローチと、他者への思いやりから、他者が正当に扱われるべきだというアプローチと、一般的に万人が正当に扱われるべきだというアプローチの三つあるのかもしれない。

 

公正さをアピールするといっても、公正さ自体には客観的な正しさが求められるので、公正さを伴なった主張に問題があるわけではない。

 

ただ、自分に都合の良いときだけ公正さを求めることは、全体をひっくるめての公正さに欠けていることになる。

 

 

 

働きに応じて受け取るのが正しいという配分的正義を重視すると、利他的な行動の必要性も疑問視され、偽善と捉えられがちになるのかもしれない。

 

現在の自分の収入や財産を正当化するために 現在の社会システムが正義に適っていると主張するのでは 正義にならないので、その分は割り引かれなければならない。

 

自分が働いた事実を把握できるのは当たり前だが、社会システム・ルールの公正さや他者の境遇などは、分かりにくい。

 

配分的正義に対する匡正的正義というよりは、公正な社会システムを前提としなければ、配分的正義を語れないのではなかろうか。

 

無主物先占や、労働を加えた分は自分のものだといったことは、道徳的直観に基づく正義というよりは、各生体としての動物本能的・利己的な独占の希望に過ぎず、それを認め合うことが相互の利益になるかどうかという判断で、第三者が存在すれば必ずしも成り立たない。

 

自分が獲得したものを横取りされたくないという本能的な欲求を認め合う部分も必要かもしれないが、仲間として認識されていなかった他者を含めてのより大きな社会として、以前の状況をそのまま受け入れるべきかどうかという問題が出てくるのだろう。

 

社会的なつながりが強くなれば、お互いに助け合うことが必要になってくる。

 

 

言論の自由の下で自由にブログを書いて良いわけだが、その個人の自由の中では、個々人が独裁的に振る舞うこともできる。

 

表現の自由が不平等だと、個々人のその独裁性が、他の人々への圧政やパワハラにつながる可能性がある。

 

個人内の自由な世界においても、公正さが欠け、他者の話に耳を傾けることや他者への配慮もできないと、外部に表されるときに暴走してしまう可能性があるのだろう。

 

 

 

個人的な休みや連休で、思いついて書いてみたくなったらいくらでも書けるという状況が、文学作品を含め芸術作品の創作なら、もっと充実した感じになるのではないかと思われたりして、残念感がある。

 

自分の考えを記すことが、人々のためにならない可能性もあるし、ひとつの見解に過ぎない感もあるからだと思う。

 

逆に自分の意見のひとつが強い影響力をもってしまうとすれば、そこに怖さもある。

 

専制君主に生まれなくて良かった。

 

権力の地位にある人の孤独感にもつながるのかもしれない。

 

 

記してみたいということが欲望的に強まり、本も読みたいのにあまり読めないままなのももどかしい。

 

自由の下で、自分をより良く制御する能力がない。

 

より良くと望まず、あまり気にしないようにして、今を楽しむことにしよう。

 

 

 

菅政権で人々の意見を聴く姿勢が打ち出されているのは良いことで、支持率の高さにもつながっているのだろう。

 

ただ、どのような意見を受け入れるのか、あるいは PRに過ぎなかったりするのかは、今後明らかとなるのだろう。

 

これまでの政治・政策と関わりの深い有識者に意見を聴いて回る比重が高ければ、進むべき方向性についての判断が怪しくなる。

 

 

解散総選挙については、コロナ禍や五輪開催にもかかわらず一気に憲法改正をしてしまうようなことを考えるのでなければ、今以上の与党優位をわざわざ狙うことは、国民のためになることではなく、党利党略に過ぎない。

 

選挙で民意を問うても、政策全部について支持を得たと考えるのは公正ではないし、議会での熟議を省いて良いわけでもない。

 

国民の意見をよく聴き入れようとするのであれば、一年の期限内で選挙をする意味は無い。

 

国民にとって選挙が必要となるのは、政権への支持に疑問が生じたときなのであり、解散が総理大臣の専権事項とされていることには問題がある。