「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。)

317

天皇による任命の形式性は、天皇に政治的権能が無いからという説明は正しいのだろうし、政府による任命についても、公共性が基盤となっている組織・分野の任命に関しては、政治的権能を利かせてはならない領域として、形式的任命であるという認識は以前から共有されてきたことではなかろうか。

 

形式的任命とは、正統性を付与し、権威付けによる後押しを図る手続きなのだろう。

 

 

人権保障や公正さなどに関わり、場合によっては行政府へのチェック機能も果たす組織に、チェックを受ける側が干渉すれば成り立たないことは言うまでもない。

 

政治的中立性が必要な対象は、行政組織内にも存在し、それを排除すれば、行政が成り立たなくなる。

 

文書管理も含まれる。

 

放送や電波に関しても、政権の介入は問題である。

 

公正取引委員会の対応も、政権と同調・協力するのでは、公正さを疑われる。

 

 

学術会議と科学技術担当相が協力して、あり方を検討するというのも公正さを欠く。

 

6人が任命されなかったことについて、人事については総理大臣の判断なので分からないというのでは、分からない人どうしで忖度しながらて進めていくのか、忖度の指南に入ったのか。

 

行政側の介入は論外なので、国会が関わることが必要になるが、そこでも政治的多数決原理では同じことになるため、公共性の視点で支える姿勢が求められる。

 

第三者的組織の検証を入れても、政権が関与した まがい物の組織では、害悪になる。

 

学術会議は、知見の側なので、第三者委員会自体の必要性というよりは、複眼的な決定・検証がなされているか、手続き・システムとして担保されているかどうかに委ねられる。

 

女性の割合が、政府の様々な部門より 学術会議のほうが高いという点は、政権側の総合的・俯瞰的な判断のほうが偏っている可能性を示唆している。

 

 

音楽や映画のノミネートなどとは違い、多くの人が任命される中で、不明確な理由で拒否されるのでは、差別的扱いであり、人権侵害であろう。

 

繰り返しとなるが、政治的な立場にある任命権者の権限が、公共領域については制約があることは、政治的多数と公共性との関係上、自明である。

 

任命権者が責任を問われる範囲も、その分狭められなければ公正ではないので、形式的任命権者が不安なのであれば、そこも はっきりさせて おけば良い。

 

同期させるというか、コインの表裏というか、形式的任命においては、実質的な人事権は失われていると解さなければ、整合性が保たれない。

 

実質的な人事権が無い以上、人事に関わることなので説明できないという言い訳は通らない。

 

 

任命されなかった側が言っても仕方ないという見解は、形式性を見落として、差別的扱いを受けた人を鞭打つものであり、人権侵害を放置・正当化する論理になる。

 

 

国が総合的・俯瞰的に判断すべきなのは当然であるが、政治からは独立した学術組織の人事が業績と離れていけば、政治的判断になっていってしまうし、恣意的にもなってしまう。

 

学術性を弱めれば、学術会議の意味が無くなる。

 

国の総合的・俯瞰的な判断のために知見が必要なのである。

 

知見を操作しようとするのは、衆愚政治である。

 

 

任命権者として自由裁量があるという見解は、公共性・独立性・中立性・形式性を看過した論理に過ぎない。

 

学問の自由が損なわれることは無いというのも、政治介入の影響を看過している。

 

学問的に高度な場が確保されていなければ、個人個人でどれだけ学問することができるだろうか。

 

そのような主張をするのであれば、大学などの肩書を使用せず、それぞれの自由に基づいて学ぶことで 自称 研究者・学者と名乗らなければ、公正さを欠くことになるのではなかろうか。

 

軍事研究をする自由を学術会議側が阻害しているという主張は、戦争の惨禍を繰り返さないという平和主義に則した倫理を無視したものであり、国是を蔑ろにしているに過ぎない。

 

 

公共放送が、公共領域について、通常の政治問題と同様に中立的な立場をとって多数決原理に委ねてしまうのでは、アイデンティティを失っていることになる。

 

公共領域については、与党も野党も関係ないのであり、たまたまどちらかの見解と同じであったからといって、それに委ねるべきではなく、独自の主張が必要である。

 

そういう部分に問題があるので、外国政府の問題は扱えても、国内政権の問題を扱うことができず、公共放送としての役割を全うできないことになるのだろう。

 

公共放送として設置されれば、必然的に、公共領域に関しては、単なる中立は許されない。

 

公共領域での中立性は、政権側に求められるものである。

 

公共放送の性質上、その中立性とは、多数決原理による意思決定に委ねられる領域に関する原則ということになる。

 

国民の多数と相反する立場をとる場合に苦しくなるのは確かだが、そこで折れては公共放送ではなくなる。

 

苦しい状況を避けるためには、多数決原理に委ねられない領域について理解してもらう努力・工夫・実践が、日常的に必要である。