公人でも一般庶民でも、暴力によって 命が奪われることがあってはならない。
演説中の銃撃ということで、民主主義への影響が心配されているが、政治信条に対する恨みではないとのことであり、個人的な怨恨から ということであれば、警護上の問題の範囲内であるように思われる。
政治的見解や思想的立場とは無関係ということであれば、言論の萎縮ということには繋がらないだろう。
民主主義の直接的な問題というよりは、拡大自殺と言われるような社会問題と通底しているように思われる。
民主主義を支える社会の問題ということだろう。
( 安倍政権下で深刻化した ) 格差社会や自己責任論の影響で、社会が すさんでしまい、一部の暴力的な人によって事件が引き起こされるのかもしれない。
ネットの陰の部分の影響もあるのだろう。
民主主義の根幹を揺るがすという点では、むしろ権力側としての安倍政権の政治手法が問題であったことを忘れるべきではない。
反対するメディアや国民を敵視したり、争点にならないようなことで解散したりして、長期政権を維持した。
レッテル貼りだと称して、反対する言論を言わせないようにしたり、虚偽答弁など議会の議論の前提事実を曲げた。
言論機関への抑圧が、民主主義の命取りになることは、ロシアや中国の状況を鑑みれば明らかである。
昨今の国際儀礼として、ショッキングな事件による犠牲者が、世界的に著名であれば、各国で弔意が表されるのは当然のことだろう。
警護に関して、一般的には身を挺して要人を守ることが是とされているのかもしれないが、一人の命を守るために一人の命の犠牲を強いることは、命を大切にしているのではなく、国家機能の維持が目的となっており、そのために命を犠牲にすることには賛成できない。
要人自身も、他者が犠牲にならないように、イメージトレーニングをしておく必要がありそうだ。
自分で身を伏せたり、防護板?・防弾チョッキなどで防ぐことを考えるべきだろう。
警護する側も、自身の命を守りながら、要人を保護すべきであり、自身の命を失う事態は、警護の失敗と捉えるべきである。
また、、要人保護の意義は、権力者や国家機能の擁護ではなく、人は誰でも、狙われると弱いという面での弱者保護として捉えられるべきである。
本人が危険に気付かない場合への対処も 当然必要である。