// 平和主義と積極的平和主義との違い //
日本国憲法の下での平和主義は、
本来、戦わないという考え方です。
しかし、積極的平和主義は、
本来の平和主義を積極的に進めていくのではなく、
軍事力による解決への協力を辞さずに国際関係に関わっていく考え方です。
ここでの平和とは少し違う概念として言及されるのが
積極的平和です。
消極的平和が、単に戦争がない状態に留まるのに対して、
積極的平和は、それに留まらず、貧困・抑圧・差別などもない状態とされます。
しかし、積極的平和主義は、その積極的平和とは異なる概念であると解されています。
憲法前文では、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して安全と生存を保持し、
国際社会が平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭をなくそうとしていることについて、名誉ある地位を占めたいとして、積極的に関わっていく姿勢を既に示しています。
そして、全世界の人々が恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認しています。
さて、ここでの議論は、安全保障と外交についてです。
本来の平和主義は、争いごとを解決する手段として軍事力を行使しません。
一方、積極的平和主義は、平和構築のためとして、軍事力の行使にも関与し、集団的自衛権にも踏み込む余地のある考え方です。
これは、「平和主義に基づいて積極的に行動する」こととは決定的に違います。
積極的平和主義は、積極的と称して、平和主義でない考え方を取り込んでしまっています。
平和主義は、文字通り平和的に解決していくので、敵味方に分けず、
相手を敵視する感情を抑制していくものです。
平和主義は、「自国のことのみに専念」してのことではなく、戦わないことで、また、平和的に解決することを示すことによって、世界平和に貢献する考え方でもあります。
戦うことは、相手国の主張を無視(「他国を無視」)して実力行使することになります。
一方、積極的平和主義は、敵味方に分けて捉え、相手が間違いで自分たちが正しいことを前提として、敵を制圧することに関与しようとします。
平和的解決を目指すのが通常でしょうが、軍事力を利用して国家間でのパワーハラスメントが行われてしまうおそれもあります。
謙虚な姿勢で自分たちが絶対正しいとまでは考えないというのであれば、
確信できないのに軍事力行使に関与することになり、
正義と称することはできないでしょう。
また、後になって、騙されていたとか、自衛のため仕方なかったという言い訳など、事後の正当化がなされるのでは、積極的平和主義のどこが平和主義なのかということになります。
平和主義とは違う解決方法であることは明らかです。
平和を維持することについて名誉ある地位を占めたいと思っても、
専守防衛であれば、海外に出て行って武力行使に関与するというのはできないのが道理です。
そして、積極的平和主義の主眼は、集団的自衛権に道を開くことにあったのでしょう。
積極的平和主義は、話し合いによる解決の範疇に、
制圧が組み込まれて再定義されており、
積極的平和主義というラベルが間違いであることは明らかです。
戦わない考え方が、戦うことにされています。
「戦争は平和である」というような
ダブルスピーク(二重語法)であると思われます。
平和主義と国際協調主義の関係
「国際協調主義に基づく…」と言われると、
何やら従わざるを得ない気がしてしまいます。
それが先述のように,本来の平和主義を積極的に推し進めていくという意味なら良いでしょう。
しかし、国際協調だからといって、武力行使にも積極的に協力していくのであれば、
それはもう平和主義ではないはずです。
本来の平和主義をやめるのであれば憲法改正が必要なのに、閣議決定や下位法の制定に合わせて、つじつま合わせのように改憲しようとすることを看過すべきではありません。
日本国民は、非武装は無理としても、専守防衛に限って許してきたと考えられますが、
軒を貸して母屋を取られる事態にまでなってきたと言えるでしょう。
バラエティー番組などで、映像が変化したところを当てるというのが ありますが、
積極的平和主義は、内容を理解しないと表記上は平和主義になっているため、変化に気づくのが難しいレトリックと言えるのではないでしょうか。
後方支援も、兵站を意味することが理解されれば同義語に過ぎませんが、地域住民の支援のような印象を与えてしまうのであれば問題です。
攻撃は最大の防御という考えに至ってしまえば、完全に平和主義とは無縁の国ということになります。
ある程度の社会経験を積めば、「一事が万事」というセンサーが働きます。
対象になる人(たち)の傾向が分かります。
野党との比較からそれをオフにして、ゆでガエルになるのでは困ります。
これまでに跳ね出るポイントはいくつもありました。
ナチスの手法に学ぶというような閣僚の発言の根っこにあるスタンスは、
その後の政権運営を暗示(明示?)していたのではないでしょうか。
経済政策に関して、アベノミクスの成果ということが言われたりもしますが、
世界経済の要因もありそうですし、恒常的で持続可能なものなのか、将来につけを回していないのか疑問です。
アベノミクスを政権のプラス評価として捉えるのは、
崩壊前のバブル経済をプラス評価して、~政権の成果ということと同じなのではないのかと思われます。
失業率の改善は、主に少子化による労働力不足からでしょう。
少子高齢化は、各国で問題となっているとしても、国内的には主に政権を担ってきた人々の責任のはずです。
経済対策として多数の外国人労働者を迎え入れる政策は、(カントのいうところの)人を手段として扱うことに等しく、また、人権保障について本国との兼ね合いがあるとしても、正規と非正規の市民という身分社会ができてしまいます。
そのようなことの問題は、雇用についての正規・非正規で既に学んでいなければならないはずですが、非正規雇用を利便性で続けきた姿勢がここでも表れているのでしょう。人の労働を物のような生産手段と同じに捉えるのは間違いです。
在日外国人に対する思いやりが欠けてしまいがちできた社会の在り方とも関係しているのでしょう。
現政権は、一億総活躍社会ということを掲げていて、
個々の人より、国家全体の効用を重視したうえで、
功利主義を採用しており、
リベラルの要素があるというよりは、
保守に新自由主義やリバタリアニズムが加味されていて、革新の要素があるのだと思われます。
思いやりのある政策は、日本国憲法の下では当たり前のことになりますが、それを促す面でも、憲法が重要な役割を果たしていることが分かります。
政策論争にもかかわらず、レッテル貼りだという主張がありました。
個人の尊厳を傷つけるレッテル貼りはいけませんが、
政策に対する批判の主題を示すラベルを
レッテル貼りだとして言わせないようにするのは、
言論を封殺するものです。
むしろ、それを言い出したほうに、自分たちに都合の良いラベルを張ろうとする意識があったのではないでしょうか。
平和安全法案なのか戦争法案なのかは、主題として議論の中身そのものを表していて重要なものでした。
自分たちのほうでは言論の内容にとどまらず、批判的な言論を発する主体を攻撃することによって、言論の自由を危うくしたのではないでしょうか。
「悪夢の~政権」という発言は、文学や芸術に関する表現ではなく、政治発言として内容とラベルが論理的に結び付く表現ではないため、選挙を意識したレッテル貼りの意図があったと言わざるをえません。
言論の主題ではなく、主観的な悪印象だけのレッテルになっています。それを言論の自由と捉えるのは間違いです。やり方として、自分がしてほしくないこと、すべきではないことをしているのではないでしょうか。
馬鹿か馬鹿でないのかというのと同じで、ただの悪口でしょう。
過去に、戦争法案だという言論に対してレッテル貼りだと述べたのは問題でした。撤回・謝罪したのかどうかは知りませんが、今回の発言は、現政権に対するレッテル貼りを受け入れる姿勢を示してのことなのでしょうか。
立憲主義だけでなく、言論の自由についての理解にも問題があると言わざるをえません。
立場が入れ替わったときに受け入れられない手法をとることは、アンフェアです。
党内向けの発言であっても、外部に伝わる状況下での大臣による悪口は不適切です。
公文書改竄、統計不正などが官僚だけの問題なのかどうかは判りませんが、様々な場面で、政権のイメージを良くしたいという域を越えて、印象操作・情報操作・プロパガンダに傾いてはいないでしょうか。
なお、大臣は憲法上の特別な職であり、在任中に大臣の責任を免れるTPOがあると解すべきではありません。
改憲についての発言も、在任中に立場を使い分けて、憲法尊重擁護義務から免れることを認めるべきではありません。
憲法改正を発議することができる立法府との違いをしっかりと認識する必要があります。
現憲法に疑問を呈するなら、本来、改憲してからその職に就き直すべきでしょう。
憲法にとらわれないというような姿勢が垣間見えるとすれば問題でしょう。
天皇の地位が日本国民の総意に基づくというのは憲法の規定よるものです。
国旗や国歌について憲法上の規定はありませんが、
大臣が天皇や国旗・国歌・自衛隊に敬意を表すのなら、同じように憲法自体に(個別の規定への賛否は別として)敬意を払うべきなのではないでしょうか。尊重擁護の姿勢が示される必要があります。
この点が、国会の召集や解散について、国会軽視の問題が出てしまう原因でしょう。
憲法を尊重擁護するということは、主権者である国民やその代表機関である国会を尊重することにつながります。
大臣や国会議員は一般的な意味で敬意を表されますが、民主主義の下で批判に曝される立場です。
国旗や国歌については、思想信条の自由に関わる部分もあります。
業務妨害などは別として、行政府が教師を統制することによって、結果として教育機関を通じて国民を統制することにつながるやり方は間違いです。
現行憲法の平和主義を変容させる積極的平和主義を掲げるのは、憲法尊重擁護義務に反すると考えられます。
法律学に反する内容の解釈改憲を認めると、憲法の存在意義が失われてしまいます。
法律の専門家であれば、平和主義と積極的平和主義の本質的な違いを理解している(できる)はずです。
本来の平和主義を踏み越えた内容を伴う積極的平和主義に基づいた平和安全法制は、違憲であると考えざるをえません。
記者の質問に関する、記者会への要請は、言論・報道統制につながるおそれがあるとの指摘が正しいでしょう。正確な事実関係を政府が説明する機会は、その場でも事後でもあるはずです。
事実を言い表すときに、評価が結び付く場合もあるため、政府が統制することには問題があります。
質問は公益上重要なので、萎縮させる方向の対応は、国民の知る権利を阻害します。
逆に、政府や大臣の説明に関して、前提事実に誤りがあった場合について自省すべきなのではないでしょうか。
記者の質問について、ある意味で記者が国民を代表していることを認めないと、
政府が、国民の中の特定の人だけを特別扱いして、質問を受け付けていることになってしまいます。
記者が国民を代表している意識をもって質問することは、国民にとって問題はありません。
誰でも参加できる場ではないので、むしろその意識は必要です。
関係の無い所で国民の代表者と名乗られても困りますが、
政府と報道機関との関係の中で、国民の代表者として質問しているという表現を否定するのは間違いでしょう。
政府の説明責任を果たしてもらうために、報道機関が間に入っているので、
憲法上の権力行使とは異なる面で、事実上、国民の代表者としての役割を果たしています。
国民が国政を任せるためには、チェックが必要です。
憲法で直接規定されていなくても、間接民主制なら当然であると解されます。
報道機関が規定されても、今度はその機関に対するチェックが問題となります。
質問者を選挙で選んでも、少数派の質問は反映されなくなります。
また、毎回、国民全の中から抽選で質問者を選んでも、物見遊山のようになってしまったり、質問書を代読するだけになってしまったりして、適切なやり取りから遠ざかり、政府としても負担が大きくなるだけでしょうし、国民も十分に判断材料を得ることができません。
選挙で選ばれた人だけが国民の代表者であるという考え方は、
選挙で選ばれ多数派で構成された政権と、国民が一体と捉えられて、
それに対する批判を許さない全体主義社会に傾いていきます。
国会議員が国民の代表者であるというのは、一部の奉仕者であってはならないという意味合いが強いと思われます。
国会議員であっても、国民の代表者だと名乗って、外国と問題を起こされたら困ります。
記者の質問を排除すると、国民の質問を排除することにつながってしまいます。
妨害行為でもなければ、政府としては丁寧な説明が必要です。
説明できるチャンスが増えたと捉えるほうが良いでしょう。
要請や要望は、質問にあたらないから受け付けない、という考え方はおかしいと考えられます。
国民として要望があれば、それについて回答を得るという意味で質問と捉えることもできます。
内容確認の質問だけでは不十分です。
意見に関しても、演説をされては困るでしょうが、手短な内容であれば、何かしら応答できるはずであり、それに対して国民は様々に判断することができます。
さて、 誹謗中傷の類いは論外ですが、ラベルが正しいのかどうかということは、重要な議論です。
「国際協調主義に基づく積極的平和主義」というラベルが間違っていることを
ここで指摘したいのです。
間違った語順で修飾語が付け足されているので、
限定修飾関係で正しく理解されなければなりません。
日本国憲法の下では、
「平和主義に基づく国際協調(主義)」
「平和主義に基づく国際貢献」
を積極的に推し進める
ということでなければなりません。
平和主義に基づかない国際協調は
できないのが
日本国憲法、日本の立場です。
たとえで言えば、みんなで協調することが大事だとしても、
ほかの子に合わせていじめに加わってはだめだという考え方に通じます。
さすがにいじめと分かっていれば加わらないでしょうが、
いじめられている子を助けるためでも、いじめっ子を攻撃することに加わるのはだめだということでもあります。
ここは協調に加わりたいところかもしれませんが、危害を加えるというのは別問題です。
正当防衛で助け出すような場面では微妙な判断が必要かもしれませんが、全ての国が同じ行動をとる必要はありません。
先進国だからといって平和主義が否定されるべきではないでしょう。
バランスを考えて立場を変える余地がないわけではありませんし、ぎりぎりのところを探るということもあるでしょうが、それぞれの国情で関わり方に違いがあるのは当然で、多様性も必要でしょう。
人を殺めた後で、勘違いでしたでは取返しがつきません。
裁判を経た死刑でさえ冤罪がありえます。
さらに、一般市民を巻き添えにする危険性を軽視すべきではありません。
自衛隊員は平和主義を守れない場所には滞在しないことで、安全を確保すべきです。
平和主義のために隊員が危険な状況に陥るのではなく、平和主義から外れていくと危険になるのです。平和主義が隊員を守っています。
平和主義に反する命令・行動は憲法違反です。
国際協調主義を掲げれば,全ての事が正当化されるというわけではないのです。
平和主義から外れた国際協調主義は、日本国憲法の下では認められません。
憲法は、国民が主権者として宣言する形をとっています。憲法が押し付けられたものだと考える人より、良い内容なのでそのまま受け入れてきた人が多かったと考えられます。
憲法上、国際協調のためだからといって、日本が武力行使に協力して良いようにはなっていません。
憲法前文の「諸国民との共和」という表現は、平和的な協調を示しているのではないでしょうか。
国際貢献は、”本来的”平和主義( ”真正”平和主義 )を国是としてでもできます。
平和主義だからできる、平和主義によってしか打開できない局面があります。
湾岸戦争でも、政治家や国民が平和主義をよく理解し、その気概や信念があれば恥じる必要はなかったですし、イラク戦争で逆の過ちを犯すこともなかったはずです。
平和主義が簡単に一国平和主義につながるのであれば、各国はそうしているでしょう。
また、攻撃に参加することを強要する国際社会が良いとは言えません。
近隣諸国との関係の中での自国の防衛を、その地域の安全確保と捉えれば、
世界の中で既に一定の責任を果たしていると言えます。それ以上の部分は国情に合わせて判断されるべきです。平和主義への理解を得る努力が必要でしょう。
近隣ということでは、最も近い隣国はロシアであり、
防衛力の強化は、アメリカだけでなく
近隣諸国の受けとめを重視する必要があります。
アメリカによる占領が緩く続いているかのような状況下の平和主義は元々不完全ですが、平和主義を大切にしない政権では、さらに遠ざかってしまいます。
「自国第一主義」や「安全保障のジレンマ」を打開するには、
平和主義が重要になるのではないでしょうか。
防衛力の強化は、他国から見れば脅威にもなりえます。
そして、軍事面に意識がいくと、平和外交が疎かになりがちです。
防衛力の強化は、敵が想定される状況下でのことでしょうから、その相手と友好関係を作ろうとする気持ちは薄れます。
敵国として想定される国への友好的な政策は、利敵行為と評価されてしまい、負の連鎖を生んでしまいます。
相手からされたことに比べて、自分が相手にしてしまったことを軽視してしまう、
自分がしてしまったことより、されたことの印象のほうが強く残る、
といったバイアスに囚われないよう、為政者がよく理解して国民を導けるくらいでなければなりません。
逆に国民は権力者側を抑制できるようになる必要があります。
この点は、日韓関係の修復や中東和平でも必要です。
戦後の日韓関係の積み重ねを覆されるのは困りますし、時効がないとして歴史を振り返えったたところで、秀吉の時代、元寇、百済や任那の時代についてどうするのかということになってしまいます。
歴史については現在の道徳的基準で判断せざるをえませんが、現在の基準だけで裁くのは、必ずしも正当とは思われません。
罪刑法定主義を出さずとも、過去の人々には現在の情報に接する機会はなく、置かれた状況も違います。現在に生きる私たちが批判的に見たり、反省するのは、死者を裁判に掛けて責任を問うことに意味があるのではなく、現在と未来をより良くするためです。死者を歴史の裁判に掛けることが必要な場合もあるでしょうが、財産関係の解決は別として、関わっていない子孫を責めることは人権侵害です。
現在の価値判断の正しさが、すべて将来の裁きによって決まるのであれば、現在の正義は留保されなければならなくなります。
一方で、日本の政治家の過去の発言や歴史認識や大臣の靖国神社参拝などで韓国側が許せなかったことについて、現政権の姿勢に重ね合わされている面もあるでしょう。
植民地支配が許せない気持ちも理解できます。
道義的には、日本が己の欲せざるところを他国に施してしまったことは間違いありません。
人権侵害や軍国主義、全体主義の誤りなどは国内的にも別の道を選択できたのにそうしなかったことは問題で、その結果、近隣諸国に被害を与える結果となっており、個別の被害者が存命であればできるだけのことをすべきです。
同じように、人権や思いやりの心からは、天皇に対しての人権侵害になるような発言が許されて良いわけでもありません。
政府としては連続していても、関与していない人や後から生まれて来た人を責めるのは、人権救済擁護の姿勢と相容れないことになります。
民族主義が人権 を侵害するのであれば、その部分は否定されなければなりません。
時の流れによって、関わっていない国民が多くなってくれば、政府間のことであっても、謝罪の繰り返しには無理が出てきます。
また、独立後の自国の選択については、強いられたり、騙されたり、判断力不足に乗じられたりしたものでもなければ、他国の責任に帰さず、自国の責任を自覚する必要があると考えられます。
お互いに間違いを指摘するのは良いですが、 抑制的であることが求められます。
両国の代表者は、自国民や相手国政府、その他の国の政府しか視野にないのではないでしょうか。
相手国の国民への思いやりを持つべきです。
両国民もお互いに思いやりを持つ必要があります。
ゲームのようなリセットはなく、近隣関係も変わりません。
単純な「しっぺ返し戦略」は、しっぺ返しの応酬となります。
「寛容なしっぺ返し」でも、しっぺ返しの段階になったら同じことでしょう。
人間は経済的な利益だけで考えるべきではありませんが、長期的にはギバーのほうが利益が大きくなるという話も聞きます。
相手の行動がどうであっても、自分たちでできる範囲で思いやりの気持ちを持って接し続けるのが良い選択です
情けは人の為ならず。巡り巡って自分たちの利益になる。
相手国との関係では損になっても、トータルでは利益につながるのに、欲張って一切の損を拒んだり、目先の利益の最大化を追求すると、
国益を求める主張とは裏腹な結果となるのではないでしょうか。
互恵主義もその度ごとに常に利益がなけれが気が済まないのでは、不完全でしょう。
中国との間での、戦略的互恵関係は、友好関係を進めたものではなく、
友好意識が失われた後での立て直しと考えらえます。
互恵に戦略的と付けなければならないのは、敵対関係が前提となり、
相手に利益になる政策が、国内で利敵行為と批判されないようにする必要が生じてしまったためでしょう。
その度ごとの互恵より、長期的な互恵関係のほうが信頼度が高いはずなので、
友好関係を目指す努力が必要です。
相手国の利益も考えて行動すれば自国の利益になるところを、利敵行為だとか売国だと捉えると、先が見えない中で大きな犠牲が待っていることも想像したほうがよいでしょう。平和主義が望まれる所以です。
敵基地攻撃能力について、敵基地を射程とするミサイルは、他国の領土を攻撃する装備であり、陸海空軍その他の戦力にあたると考えられます。
それ以前に自衛隊が既に戦力でしょうが、全く歯止めが無くなるのも問題です。
ミサイル問題で北朝鮮を非難しながら、同じ思考に陥ると、平和主義から遠ざかります。
相手の実力に応じた防衛力が必要と考えても、その後の展開は予測できず、そのような事態に至っては、核兵器も絡んで結局、自国が無傷ではいられないでしょう。
自衛権の根拠を十三条に求めると、最大の尊重ということから、最大限の防衛力が求められかねず、際限がありません。
核ミサイル問題の解決のためとはいえ、経済制裁などの圧力について、潮目が変わった後も強く主張し続けた結果、恨みを買って拉致問題の解決に逆効果となり、アメリカ頼みになっているのが現状でしょう。
軍事力でなくても、圧力をかけるというのは、もともと平和主義の路線ではありません。
相手国や他国の受けとめ方を重視しないことは、戦前への反省を軽視していることであり、自国のことのみに専念して他国を無視する姿勢です。
積極的平和主義の実像である、積極的「対決主義」 が表れています。
領土問題では、北方二島を事実上諦めるのなら、竹島についても諦められる姿勢であると言えるのかもしれません。
ただ、自国民の安全や平和を考えて領土を諦めることについて、売国という批判は不適切です。国際司法裁判所による解決は正しいと思います。
北方領土に関して、ロシアは第二次世界大戦の結果であると主張していますが、ソ連は国連憲章調印後、批准するまでの間に日本の無条件降伏受諾後も侵攻して、領土を拡大しており、それによる結果を許すと国連の正当性にも疵がつきます。
結果に対しては、因果関係(原因と結果の関係)として必然的に、原因や意図・目的の正当性が問題となるはずです。
他国の領土に侵攻した後で先占のような主張をすることを許すのであれば、あらゆる侵略戦争が正当化されることになってしまいます。
原因や意図・目的に触れずに、結果だけを主張するのは、正当性のある根拠を欠いているからにほかなりません。
対日参戦の目的に領土拡大の意図が一切なかったことにしたければ、最低限日本が求める四島返還を受け入れる必要があると国際社会は考えるべきであり、日本はそう主張すべきでしょう。
安全保障と外交は結び付いており、
平和主義の下では、外交姿勢が安全保障に直結します。
防衛力の強化に意識がいくと痛手が大きくなります。
平和主義から外れているからこそ、防衛力強化が必要になってしまう面があります。
多くの人が生まれる前からのボタンの掛け違いを直すことは困難ですが、
日本は既に非武装ではなく、自衛力を保有しています。
さらに、 国際テロ組織の出現で状況が変わった面もあります。
ただ、平和主義が古いのではなく、現実のほうが憲法制定時より後退しただけです。
方向感だけは失うべきではありません。
ところで、政治を引き継ぐ場合には、過去の政権運営が間違っていたとしても、革命が望まれているのでもなければ、現実的にはそれまでのことを前提として引き継がざるをえません。
それは引き継ぐほうが悪いわけではありません。
ただ、現実主義を標榜しても、他に原則や理想を持っていなければ、根無し草です。
あくまでも理想を掲げながら、現実的な対応をしていくということでなければなりません。
責任政党ということでは、現実主義だけの政党や、原則から外れていくことに拍車をかけたり、流されるままの政党は、無責任政党です。
原則や理想に近づける選択肢があっても、原則を諦めてしまっていれば視野に入らなくなってしまいます。
他国に脅威を感じさせる防衛力の増強は軍拡競争を招き、
国民の安全や利益になりません。
防衛力の強化が単純に自国の安全につながるわけではなく、
かえってマイナスになることも考える必要があります。
それを考えると、無駄使いである可能性が高いことも多いでしょう。
平和主義を理想と掲げる専守防衛に立ち返るべきです。
平和主義が、国際貢献に結び付くことを
信じるというよりは、
理解する必要があります。
平和主義に基づく国際協調主義
平和主義に基づく国際貢献
平和主義のほうが主です。
自分の信条・信念をもったうえで、他の人と協調するのです。
自分の信条・信念といっても、 平和主義が自国第一主義とは真逆の考え方であることは言うまでもありません。
憲法の解釈について、学者がおかしいという意見があります。
国民の多くが自衛隊は合憲だと思っている
という言い方も聞いたことがあります。
しかし、この考え方は、国語のテストの答えを国民の多数決で決めるのに等しく、おかしな考えであることが分かります。
また、専門家の多数見解と違う解答を権力者やその側近が示すのも間違いです。
自衛隊が必要かどうかは、国民が判断することですが、
合憲か違憲かは学問上、判断されるべきことです。
適切な論理的読解力に基づいて判断されるべきです。
違憲と判断された場合でも、国民が必要と判断すれば、改正で解決するのがまともな方法です。
また、学者の多数見解が明らかでない場合も同じです。
違憲判決後、改正までに混乱しないようにしておくことはできるはずですし、法律学上の多数意見に沿っていることについて違憲判決はほとんど考えられないでしょう。
少数説が学問として認められないわけではなく、後に多数説になることもあるでしょう。
しかし、その時の人間の知性で判断が分かれることについては、専門家のその時の多数説ということにならざるをえません。
実際には、専門家の範囲の確定などルールを厳密に定めることが困難でも、意識されるのとそうでないのとでは違いが大きいでしょう。
国会などで、決められる政治と称して安易に多数決で決めようとするのは間違いです。
弱者救済の対象や方法を決めかねるときに多数決を用いるべきところ、
強者の満足のために使われることが多いと思われます。
また、政府が御用学者を量産すると、学問が歪められるおそれがありますから、
学問の自由・独立が大切です。
軍事専門家は防衛省関係者が多いのでしょうが、必要性の判断
その他、シビリアンコントロールが必要なのは当然のことです。
原発に関する研究者で、推進する立場の人が多ければ、安全性についての判断が、推進するほうへ傾くと推察すべきでしょう。
選挙によって政権を任されたといっても、個々の政策全てが支持されたと捉えるのが間違いなのは誰でも分かります。
原発に反対する国民が多いとすれば、民意に反して政策を進めていく政権とは何なのでしょうか。
将来世代への思いやりも必要です。
様々な政策が信頼されれば、増税も理解されます。
司法権は裁判所にありますが、その司法権は、法律学に基づくものです。
司法権が法律学に基づいているというのは、憲法の下でも当然のことなので、司法権が法律学に反した判断を示すことはできないはずです。
裁判所の恣意的な判断が司法権だとされても困るはずです。
公権力による法的判断は、法的思考に基づけばどのような判断を示しても良いと考えるべきではないと思います。
法的思考による裁量は、新しい問題等で多数見解が明らかでない場合・状況変化の中での可能な範囲内の解釈・実務処理上のことなどに必要となるものと考えられます。
行政権による判断の合憲性が問題になった場合には、司法権は適切に判断を示さなければなりません。
法的判断を示すことができるのに、高度に政治性を有するとして、その判断を避けるようなことも、恣意的な裁量判断でしょう。
判断しないのでは、司法権が行政権に従属していることになります。
判断できない人は、その地位に身を置くべきではありません。
内閣法制局についても、法律学上の多数意見と乖離した判断は、法律判断と呼ぶ価値がないと思います。
一定の権限があっても、法律学上の多数意見を無視した解釈は、有権解釈ではなく司法権の簒奪と言えるのではないでしょうか。
三権分立に関しては、裁判官の指名・任命権などを含めて、必ずしもうまく機能してこなかった面もあるため、機械の微調整のような調整が必要です。
政権与党との関係があり、最高裁が法律学に基づいた判断を示さなかった事柄については、国民が判断する契機が失われ、ボタンの掛け違いが続いてきたと考えられます。
裁判所が法律学上の多数意見に基づいて判断すれば、どのような政党が政権運営してもぶれにくいでしょう。
成文憲法の一部が改正されずに失効したと捉えるには、国民のほとんどがそう考える状況でなければならないでしょう。
政治家が、声なき声を聴くというのであれば、しっかりと確認すべきです。
それをせずに、声を上げている人々の声にも耳を貸さないのでは、
(多数決によるべきでない弱者救済でもない限り)
独善的で恣意的な権力行使と言えるでしょう。
専門領域の知性に委ねるべきことと
国民の判断に委ねるべきことについては、
国会、行政機関、裁判所を問わず、裁量で判断をしてはいけないことを自覚すべきです。
民主主義にとってそこは、とても重要なことだと思います。
間接民主制を理由に何でも裁量でやってしまうと、民意からも知性からも乖離して、ずれも大きくなるでしょう。
政権の意向に沿って設置された機関は、知性を代表しません。
民意や知性に基づかない権力に、正しさはありません。
憲法問題が続いてきた原因も、国政が、民意や知性から乖離してきたことにあると考えられます。
迅速な対応が必要でやむを得ない場合は、事後に明確な判断を仰ぐ必要があります。
先述のように、自衛権について、十三条を根拠にする考え方がありますが、
武力行使を放棄した主体としての国民と
保護される客体としての国民が
すり替えられてしまっておかしいと考えます。
また、戦う人と守られる人の二種類の人権が併存するのでしょうか。
幸福追求のために全員で戦うと考えるのであれば、権利が保障された規定が、義務の規定でもあるということになりますし、
幸福追求のために全員で戦わないという選択もあるので、
十三条は根拠になりえないと考えます。
最大の尊重ということについて、平和主義と防衛力のどちらがそれに適うのかは必ずしも明らかではありません。
一般的に人権保障を掲げつつ、主権者として、敢えて平和主義を選択したものと解されます。
自衛権は放棄できないという主張は、様々なことについて,「~できない」と主張できてしまう論理であると考えられます。
パリ不戦条約や国連憲章と同じ用語や文節が用いられていることを根拠にする見解もありますが、同じ趣旨での引用なら、当初から同じ解釈がなされたはずです。
九条は、既存の用語を用いて、内容をさらに推し進めた表現になっていると解されます。それは前文により明らかです。
憲法は、国民全体で決める国の根本規則であり、抜け道を探るような解釈をすべきではありません。
安保条約についても、
しないと決めた禁止行為を、他人にやらせる なら許される、
平和主義を掲げたのに、それに反する役割を他国にさせるなら良い
という考え方を認めると、あらゆることについて禁止が意味を成さなくなります。
九条を改正するのであれば、
平和主義から外れていかないようにすることが必要で、
素案として
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
客観的な視点に立ち、他国に脅威を与えずに自国の安全を守るため、
必要最小限度の戦力を保有する。
文民統制その他の規定
同盟関係・集団的自衛権など重要事項を国民投票に付すならその規定
軍事的空白は、つけ込まれてしまうと不正義に手を貸すことにもなります。
自国の平和な状態を維持することは、自国の利益だけでなく、国際的に意義のあることです。
ただ、戦いになってしまえば、安心・安全ではいられません。
他国を刺激しない軍事力を持ちながら、あくまでも平和主義に徹するのが良いと考えます。
また、現状の軍事バランスを考慮せずに改正すると危険な場合もあるでしょう。
なお、国連内、世界全体での平和主義と、各国の軍縮及び適正な国連軍が求められます。
一部の国の力関係に影響されない方向に進む選択を積み上げていく必要があります。
象徴天皇制について
天皇皇后両陛下は思いやりの心を体現されてこられ、敬愛の念を抱きます。
しかし、改憲ということで言えば 、象徴天皇制についても議論がなされるべきだと思います。
象徴天皇制は民主主義を曖昧にするので、国の制度からは外して民間で続けていくのが良いと思います。
一般的な民営化は経済効率性から導入されますが、この場合は政治制度の適正性ということでしょう。
天皇制を大切に思う人の気持ちと
政教分離で他の価値を大切に思う人の気持ちを両方考えると
民間で運営する研究を進めていく必要があると考えます。
伝統を大切にする考え方もあれば、過去の権力者やその子孫を崇拝し続けることに疑問を呈する考え方もありえます。
国の制度から外すと意味がなくなると思っても、現在が民主主義であることは間違いありません。その中で、微妙に宗教的・君主的な印象をもたせる地位を残しておくのは無理な考え方です。軋轢をなくすことができません。価値のあることであれば、民間でつないでいくことはできるでしょう。
民主主義を補正するような役割を期待しても、その地位に就いた方の人格や考え方次第になってしまいます。
補正する役割がはっきりしてくると、民主主義を補正するというより、政権の維持に利用されてしまいます。
良い君主であることがはっきりしているのなら、民主主義をやめたほうが良いでしょうが、多数派の良いという判断が正しいとは限りません。
外交上、政治から離れた役割を評価する考え方もありますが、特定の国との継続的な結び付き自体が政治性を帯びるとも考えられます。
一般市民(子どもでも)に交流してもらう方法もあるでしょう。
制度の議論より重要な点は、天皇や皇族がその地位から逃れたいという場合に、人権を保障されている国民が、人としてそれを拒否できるのかということです。
特別な権利と特別な不自由のある地位であり、なりたいと思ってもなれず、辞めたいと思っても辞められない地位です。
立憲主義という点で、天皇の権能は憲法によって制約されていますが、逆に、公務や象徴としての務めと言い表されていることについて、一般の人には課されない義務が、生まれによって課されることになっています。
多数者によって、一人に義務を負わせる形となっています。
色々なことについて、世の中は曖昧なままで営まれている部分もありますが、争いや不平等をなくすことは大切です。
象徴天皇制は、民主主義や国民主権と矛盾すると考えます。
一つの統治の中で、一時的な滞在者などは別として、主権がある側とない側に分ける、国民と国民とでない存在に分ける時点で、民主主義や国民主権は毀損しています。
国民が決めたから、国民主権だからといって特別な存在を作っていけば、民主主義は瓦解します。
オセロゲームの石?を、同じ色に敷き詰めた後、裏返していくとどうでしょうか。
色が逆転していき、主権を握る者が一人や少数者になり、独裁体制に進む余地があります。
民衆が気が付かぬうちに、主権を持たない側に回ってしまうのが全体主義ではないでしょうか。
また、良い特別な存在ではなく、悪い特別な存在として扱うのが、少数民族差別その他、様々な差別的扱いと考えられます。
特別な存在が少数だと、民主主義や国民主権と両立しているように見えるだけだと思います。制限選挙下で民主主義が不完全なのと同じです。
多数決原理の民主主義が、自由主義や人権と対立すると捉える考え方もありますが、
上記のような考え方からすれば、人権は民主主義や国民主権の中に、論理的に含まれていると私は考えます。そして、平等主義ともつながっていると考えます。
人権に価値を置くのであれば、民主主義が必要とされ、それも完全な民主主義でなければならないと考えられます。
自分の権利を守ってほしければ、他者の権利を守る必要があります。
自分の権利だけ守られれば良いと考えるのは独裁主義でしょうし、自分の権利も他人の権利も守られていない状態は、内乱・内戦状態、闘争・戦争状態でしょう。
一見、特別な存在であることを本人が真意で受け入れていれば良いようにも思われますが、不平等や人権侵害を認めるべきではありませんし、制度上も先述の論理から否定される必要があります。
同一統治内で全員の人権が平等に保障されていなければ、民主主義や国民主権は完成していないと考えられます。
言論の自由と責任について
責任については、名誉棄損や人の尊厳を傷つける言論は、責任を問われて当然です。
人としての尊厳は、言論の自由の行使の前提になります。
自分の権利を認めてほしければ、他人の権利を守らなければならないのは当然のことです。
人への評価で、公人や犯罪を犯した人について一般との違いはあるでしょうが、自身の表現についての抑制も必要です。自分の保護領域を広くとって他者のそれを狭く考えるのでは、争いが絶えません。
一方で、自由も大切で、幸福につながることです。
また、たとえば世界で最も気が小さい人や無責任な人の意見が、世界で最も役立つ可能性もあります。
責任を問われるのは、名誉棄損や人の尊厳を傷つけるような場合だけで、意見の内容が悪いとしても、それで責任を問われるべきではないと考えます。
責任を問われるなら、言わないほうが良いということになり、社会のためにもなりません。
言いだしたなら自分がやれという論理も的外れで、出された案が良いものなら、その人は一定の役割を果たしており、むしろ他の人が引き継ぐ必要もあります。
物事についての評価は、人によって最高評価もあれば最低評価もありえます。
問題になるのは、あることについて、大切に思う人とそうでない人がいる場合です。
たとえばある作品についての二次創作やパロディで、著作権上問題がない場合でも、原作との結びつきが強く、原作の印象を変えてしまう場合などでは、元の作品を大切に思う人もいます。
宗教などについても同じです。特定の宗教や教祖について大切に思う人と批判的な人がいたりします。
ただ、大切に思うといっても、教義の解釈によって他者を害した場合には、その教義の解釈についての自由を主張するより、償う気持ちが必要です。
法的権利の正当性だけで考えるのでは、良い世の中とは言えません。
法律が個別のことに常に適合するわけではないので、人として正しい解決とは言えない状況も生まれます。
他者との接点での権利主張には、思いやりが必要なことも多いでしょう。
表現の自由として最低評価も示せる必要がありますが、
一方で、マイナス評価について、それを目にしたくない人がそれを避けられないような状況が繰り返されることは認めるべきではないと思います。
自由といっても、人が複数人存在すれば無制約ではありえないので、見たい人・知りたい人がアクセスして利用できる場があれば、表現の自由が確保されていると考える必要があります。
一方で、目にしたくないという内容も、ある程度一般的・客観的に考えざるををえません。
ナチスの所業などは行為の結果で罰せられるのは当然ですが、
思想表現についても人の尊厳を傷つける内容については認められるべきではありません。
ただ、思想表現と、その思想に基づいてなされた実際の行為結果についての処罰は、別のものです。
一般的に意見を出しただけなら、通常はそれを採用した人の責任です。
また、禁じられたのものでも、内容について批判するために必要不可欠で適切な範囲での引用は認められなければなりません。
理想通りにはいかない中で、社会は営まれています。
人工妊娠中絶については、 望まない妊娠は防がれなければなりませんが、もしそうなってしまった場合には、命を救うという観点から、母体が危険と判断されない限りでは、産んでもらって、社会で育てるのが正しいと思います。
人間以外の生命については、様々な理由から殺さざるをえないとしても、殺さないで済む研究が進められるべきだとと思います。
同性婚は、それが認められる社会のほうが優しい社会かもしれません。
男女間と同じ様にしたいという気持ちも理解できます。
同性婚も認めることが家族としての結びつきを奨励する面もあるかもしれません。
しかし、独身者との対比では、恋愛が成就した恵まれた人を優遇する制度になってしまう面もあるため、婚姻制度を廃止して、子育てなどについては別に優遇することを考えたほうが良いとも思われます。
元来、婚姻制度は、命をつないでいく結びつきを優遇してきたものと解されます。
ただ、経済効率ではないので、生産性という捉え方は不適切です。
男女の婚姻で子供ができなくても問題視すべきでないのと同じで、家族単位を前提とする政策下では、同性婚が認められたほうが良いのかもしれません。
ただ、一人ひとりではない、最小集団単位の政策が良いとも思われません。
男女によって人類が生命をつないできたことは否定しようがありません。
性的指向の違いを問わず、全ての人が男女間から生まれます。
婚姻制度の趣旨と独身者の存在を考えると、同性婚が認められないのが法の下の平等に反して不当だとまでは思えません。
近親者間などでは、どのように考えるのでしょうか。
性的指向についての偏見をなくすことが重要なことは言うまでもありませんが、
恋愛感情や特定の愛情を保護する制度として婚姻制度を続けるのであれば、疑問に思います。
愛情を保護する範囲を広げることで、男女間の結びつきも促進されてプラスになるのか、逆効果なのかは分かりませんが、同性婚を認める主張は社会の効用ではなく、個人の幸福のためでしょう。
婚姻制度を個人の幸福のための制度と捉えるのであれば、独身者への配慮が必要となります。
たとえが適切かどうか分かりませんが、パズルのピースとして、男女間・同性間・独身、それぞれ大事ですが、婚姻制度という図柄にはぴったり当てはまらないため、人々の主張が合わないのであれば、そのまま当てはめるより、図柄のほうを変えたほうが良いのではないかということになります。
(医療との区分けが難しい場合もあるのでしょうが)
遺伝子操作によって子孫を創り出すことには反対です。
人間の知性では収拾がつかなくなり、技術的特異点とも関係してくるように思われます。
ただその前に、技術的には可能であっても、倫理・哲学・宗教上、人間の知的・理性的判断の限界点に差し掛かっているのかもしれません。
確実な判断ができなければ、乗り出してはいけないことだと思います。
死刑制度について
死刑制度は、被害者側や社会の応報感情を大切にして行われていると考えられますが、
人間の優しさや思いやりを主として知性を用いるならば、死刑制度は廃止すべきであるとの結論になると思います。
経済政策について
格差を容認して、富める者の富をさらに増やしていく政策は、植民地政策を形を変えて行なっているものであると捉える必要があります。
植民地政策が否定されるべきなのは、国と国との関係上というよりは、人と人との関係に還元されて問題があるからでしょう。
従って、植民地政策を否定するのであれば、格差を容認する政策もとりえないはずです。
資本主義である以上仕方がないという言い訳をしていると進歩がありません。
移民政策に関して、アメリカが国境に壁を建設するというのは 、国全体としては余裕がありながら、富が偏って余裕のない人々が多くなってしまったためでしょう。
景気の継続が最長であるという説明がなされますが、
景気の継続がどれ程のもにであるかということは、本来は、実感が大きくてこれは過去と比較してどれ位のものなのかというのが順序です。
景気というのは気ということからも、好況感や停滞感など感じ方がもとになって指標を用いているはずです。
社会全体の指標としては良く、一部の人は潤っているが、多くの人は潤っていない、という政策が続いている状況は良いことなのでしょうか。
景気が悪くなる前におこぼれに預かれれば良いのかもしれませんが、トリクルダウンがどれほどのものかは判らず、保証もありません。
そのような政策が繰り返されれば格差が広がっていくということは、大数の法則を持ち出さずとも分かります。
政治資金を介して、強者と政治が結び付いていれば政策が歪みます。
優しさや思いやりの心がしっかりとあれば歪みませんが、思いやりの心があれば、初めから強者と政治が結び付かない選択がなされるでしょう。
政治は数だ、数が力だと捉えるのなら、それを用いる基準に優しさや思いやりの心がなければなりません。
少子高齢化が大きく進んでしまったのは、一世代の間の政策や社会の考え方が間違っていた結果です。
強者を優遇した政策をとり、財界の求めや便利さを優先し、非正規雇用を多くするなどして、結婚しづらい状況を続ければ、当然のことであったと言えます。
福祉が不十分で、少ない収入であれば、安心して消費にも回せないでしょう。
成果主義の社会は、成果を上げられる人だけでは成り立たない、ということに気づかなかった人も多いのかもしれません。
成果を上げて収入の多い人だけが、極端に多くの子どもを育てる社会でもありませんでしたし、そういう社会も幸せにはつながらないと思われます。
また、直接の成果につながっていなくても、社会の中で役割を果たしていることは多いと思われます。
努力した人が報われるべきだという考え方は間違いではなくても、
そこに思いやりの心が欠けてしまうと、
行き過ぎた利己主義になってしまうのでしょう。
富が偏在する中で、自己責任や自助が求められると社会が成り立ちません。
働かない人が増えても社会で支え切れませんが、
支える側に回ってもらえるのに、不十分な待遇のため世代を十分につなぐことができなかった結果が出ています。
頭で考えなくても、思いやりの心があれば、元から分かっていたであろうということが多いです。
思いやりの不十分なところを改善すれば、社会も良くなります。
日本は仏教や儒教が浸透してきた社会なので、
ジョン・ロールズの正義論で示された内容は、
思いやりの心を理解していれば、平等主義の一つとして、
必ずしも特殊な考え方ではないように思われます。
どのような考え方が、思いやりに適うかということは別の議論ですが、
社会制度のあり方に関して、思いやりの心の一つの考え方を、知性を使って理論的に説明していることが感覚的に分かります。
保守・革新・リベラルその他、立場を問わず、思いやりの心が大切です。