沖縄県民投票が
全県で行われることになったのは良かったと思います。
一般に指摘されてきましたが、法律の手続きに則って決まった県民投票なのに、実施しない予定の市町村があったのは問題でした。
実施しないのでは、適法な住民投票への妨害になってしまうのではないでしょうか。
今後の地方自治制度に悪影響を及ぼすことがないよう考察が必要です。
住民の意思を示す機会が設けられたのにそれを失わせるのは、住民自治を傷つけ、地方自治の本旨に反すると思います。
選挙で選ばれたからといって、住民の投票機会を失わせるのは間違いでしょう。
投票できない状況を作り出してしまうのは、民主政に対する誤解に基づくものであり、国の対外的な信用にも関わるため、政府のスタンスが問われます。
地方自治は憲法に規定された国家の枠組みであり、重要な部分で問題が生じたときには、国も手立てを考える必要があるのではないでしょうか。
行政機関どうしの問題としてではなく、国と自治体は政党政治の下でつながりがあるので、解決方法はあるはずです。
手続きの公正さとして、対立している人の立場が入れ替わったときに受け入れられるものでなければなりません。フェアプレイが求められます。
手続きの公正さが求められた場合には、権力闘争とは分けて捉える必要があります。
たとえば、外国の政権争いで、どちらかが優勢になって抑圧が行われるようになり、手続きの公正さ・適正さが求められた場合にそれを権力闘争と捉えると、人権侵害が放置されたり、アンフェアな状況が続くおそれがあります。
( 逆に、不正があった場合に、権力闘争の有無で処罰の可否を判断するのも間違いです。)
国内で立場が対等でない場合に公正さを保つため、社会では優しさが必要とされます。
「どちらでもない」を含む三案について
アンケート調査で済むのなら住民投票は要りません。
曖昧な選択肢を入れないと実施しないというのでは、先に述べた理由から、不適切な対応であると言わざるを得ません。
曖昧な内容にすると、 住民投票が求められた趣旨から逸脱してしまうのではないでしょうか。
「どちらでもない」ことの内容をはっきりさせて、その内容に沿った選択肢を入れるならまだ分かりますが、今回の「どちらでもない」は無内容で、住民投票を曖昧にする悪い手法なのではないでしょうか。
住民の意思を尊重しようとする姿勢があれば、できるだけはっきりとした結果がでるようにするはずです。
日常生活でも、誰かの意思を尊重する場合には、確かめる機会があるのであれば忖度ではなく、はっきりと意思を確かめます。
曖昧にしようとするのは、自分たちで判断したいからでしょう。
沖縄に寄り添う気持ちが政府にあるのであれば、沖縄が含まれない主権回復の記念式典は行なうべきではありませんでした。そのようなことでは、日本が美しい国だとは思えませんし、悲しいことでした。
「どちらでもない」は、賛否が分からない人のための選択肢なのでしょうか。
分からない人には、棄権という方法が(記述方法によっては白票を投じる方法も)既にあります。
「どちらでもない」を選択肢に含めたからといって、喜んで投票所に足を運ぶ人が増えるとは思えません。
投票率が上がるとすればそれは、
結果は予想できたけれども、おかしな選択肢を入れられて曖昧にされては嫌だ、という気持ちが生まれてのことになるのではないでしょうか。
投票の結果、
「どちらでもない」が多かった場合、
「どちらでもない」が文字通り賛成でも反対でもなく、他に何か考えがあるのであれば、
その内容が反映されていない投票方法では、民意を的確に捉えた住民投票とは言えず、やはり初めから選択肢がおかしかったということになります。
「どちらでもない」という意見が強いのなら、予め他の選択肢の主張がなされているはずです。
埋め立てへの反対が多かった場合は言うまでもありませんが、
「どちらでもない」が多かった場合には、
熟議が足りず,工事を進めるべきではないという民意と解されるのではないでしょうか。
賛成が多かった場合には、所在地である名護市や辺野古区の民意も問題となります。
しかし、逆に名護市や辺野古で受け入れ賛成の民意が示されたとしても、
周辺地域として一体的に過重な負担を強いられている全県の民意や隣接地域の民意が尊重されなければならないでしょう。
ピンポイントで優遇措置を執って賛成してもらおうとする政策は間違いです。
普天間飛行場周辺の危険は早く無くすべきです。
しかし、基地は必要で工事を急ぐべきだと主張するのであれば、
自分が住む市町村で早急に受け入れるべきです。
既に負担が大きい沖縄はそこに含まれません。
普天間飛行場の危険除去が原点という考え方が間違っています。
危険除去はとても重要なことですが、原点としてはそれより前に沖縄の過重な負担という問題が既にあったはずです。
辺野古に移設した後で、負担を減らしていくということを責任をもって言えるのなら、確実な手順が既に決定されていなければなりません。優秀な人が集まっているはずの国が、移設してから考えるのでしょうか。
県内移設では、移設先・元の関係上、どちらとも言えなくなってしまうことは理解できます。
一般に考えても、物事の危険除去への反対は通常考えられないにもかかわらず、
多くの人が反対せざるをえないことを政府は重く受け止めなければなりません。
日本人は言うまでもありませんが、アメリカ人も、アメリカの政策に関わることでは自国民の人権と同じ様に他国民の人権も守るべきです。
代替案を示す責任を負うのは、辺野古に反対する人ではなく、
基地が必要だと考える政府と
基地の必要性を支持している国民です。
情報が不十分だと国民は判断できませんから、政府に任せている限りでは政府の責任です。
国が責任を持って沖縄以外の代替地を早急に決めなければなりません。
但し、国内外を問わず辺野古以外の解決策を政府が示すことができないのなら、
最終的に代替案を創り出す責任は、政権を支持する人々に帰すると考えるのが道理です。
安全保障政策は国の専権事項というのは、行政機関どうしの所管の問題であり、論点が違います。
国の在り方に関わる安全保障政策を決めるのは国民です。
但し、人権に関わることについては、
多数決で決めることができない
という点も押さえておく必要があります。
思いやりの心を主として知性が使われれば、国の政策も思いやりのあるものになります。
「思いやり予算」という表現は、誤用だと思います。
思いやりとは違う要因が働いています。
思いやりという言葉は、言い訳やごまかしに使ってはなりません。
世界で最も豊かで強い国に対しても
思いやりが必要な場合はありますが、
思いやりについての正しい判断と
ほんとうに思いやる気持ちが必要です。
不利な立場の人々へ思いやりや優しさを示せる国が良いのではないでしょうか。
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辺野古埋め立て反対が多数となった結果に対して、
結果を真摯に受けとめるというコメントが出されました。
条件闘争のための住民投票とは解されないため、
条件のレベルで考えるのは真摯とは言えず 、
政策を抜本的に変える必要があります。
自分たちの考えを変えずに、理解が得られるよう努力するということが間違いであることは明らかです。
辺野古埋め立てに反対という直接的な求めに対して、
基地負担の軽減に努めるという一般的な応答は、かみ合っておらず、
誠実な姿勢とは言えません。
県内移設を伴わない、普天間の危険除去が、
早急に必要とされています。
憲法や住民投票で示されている内容について、まともに向き合わない姿勢こそが問題であることを為政者は深く理解すべきです。
住民投票の結果に拘束されると考えるべきではありませんが、
沖縄の要望に理があります。
普天間飛行場の危険除去を言いながら、
羽田空港の旅客機の発着で、過密都心上空を飛行させる計画を進めるのもおかしなことです。
ヘリコプターによる家屋上空の遊覧飛行も良いこととは思っていませんでしたが、それより低高度での警備関連の?ヘリコプターの飛行も、頻繁になされているようです。
警備の必要上というより、飛行機の騒音や上空飛行に慣れさせようとしている面がないのか疑問です。