「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。)

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テレビ番組の中で、自分の都合を言わない入院患者の周りが平和だったという話がありました。

実際の場面の映像ではなく、伝聞の伝聞であり、また、語り手の評価を通した内容なので言葉上でしか分かりませんが、自分の都合を言わないということが、利他主義の実践の一つであることが分かりました。

 

自分の負担があまり無い場合に利他的な行動を採るのは容易でも、自己犠牲が強くなると難しくなりますし、自己犠牲が正しいとも言い切れない部分はあります。

 

 

卑近な例を挙げてしまうと、歯科医院で、痛かったのでそれを伝えたところ、痛いのがおかしいといった感じだったことがありました。

聞かれたことに答えようとしたら、口を開けてと言われて遮られたりもしました。

治療の進め方を聞いても、煩わせてしまっている雰囲気でした。

 

この場合、自分の都合を言わず、痛みを我慢して、治療の説明も求めなければ、より平和的だったのかもしれませんが、それもどうかと思われます。

特定の日しか通院できないというのも自分の都合かもしれませんが、そうしないと仕事を自分の都合で休まなければならなくなります。

治療していただいているという感謝の気持ちをもっと示すべきだったのかもしれませんが、医師の姿勢に元々問題があるように思えます。

適切な治療をするためには、痛みについても偏見無く考慮する必要があるはずです。

仮に考慮しなくても良い痛みであったとしても、患者を責めるべきではなく、説明が必要でしょう。

別の医師が攻撃的な口調で説明してくれたこともありましたが、こちらの話に耳を傾けたうえでのことではないので意味がありませんでした。

 

靴を買うときに足が痛ければその人に問題があると考える靴屋さんには行きたくないでしょう。

問題が生じる場合のほうが少ないからといって、痛みを訴えた患者がおかしいといった対応をすると、患者側は痛みを訴えにくくなったり、他の医院に替えたりすることになり、治療の正しさについて当該医師自身では検証が十分にできないことになります。

気にし過ぎだという捉え方をすることによって、世の中の多くのことを見過ごすことが可能になります。

 

 

穏やかな人なら違う雰囲気にもっていけるのかもしれませんが、穏やかな人になりたいと思いながら、そうなれない自分がいます。

幸せのためには、他人を責めず、自分も責めないほうがいいと思いながら、現実の場面では難しいです。

 

交通ルールなどははっきりしているので、自分のほうが優先なのが分かると、ルール違反の相手に対しては寛容になりにくいです。

譲らないと危険な場合は別として、優先する側が安易に譲ると、他の人が危険に晒されたり、ルールを曖昧にしたりすることにもつながってしまいます。

 

ミスを許すことができても、図々しさは許せなかったりします。

 

 

利他主義が全員によって実践されない場合だと、他者への配慮を欠いた利己主義が入り込んで、自由や公正さが失われてしまうおそれもあります。

 

専ら利他主義によるというのはその人毎の善の構想で、リベラリズムは、公正なルールの下で、自己利益を含め各自がそれぞれの善の構想によって生きるのを認め合う考え方なのでしょう。

 

公正さを保つためには、客観的に見て自分の利益より他者の利益を増進させることを受け容れなければならない局面がありえます。

そのため、リベラリズムには、客観性と利他性に基づく判断が必要です。

 

そして、利他性の判断に、優しさや思いやりが伴わないと、利他性の判断が利己的になってしまったりして、リベラリズムが怪しげなものになってしまいます。

また、優しさや思いやりの方向性を間違えても、公正さが保てないので、客観性が必要です。

 

客観性や思いやりは、人間に見合った能力であり、社会の中での最大限の自由を求めることをお互いが認め合うためには不可欠です。