天皇の即位だけでなく、大規模災害後間もない時期に国家的な祝宴が催される国であることも、内外に示されることになりました。
言うまでもなく、日本国憲法の下で、天皇に政治責任は ありません。
国民に寄り添うという言葉が、当初から虚しくなってしまいました。
即位に関して ( 安倍政権が ) 汚点を残すことでもあります。
どういう国民に寄り添う (っている) のか、どのように寄り添っていくのか心配です。
即位に関して、国民のほうが天皇に寄り添って、祝宴を挙げるべきなのでしょうか。
政権の思惑次第になってしまい、危険です。
やむを得ないと受けとめる向きもあるかもしれませんが、大規模災害後間もない時期や災害が相次ぐ中で、公的な祝宴が予定通り行なわれてしまう国が信頼されるのかは疑問です。
一般のスポーツが行なわれることなどとは違います。
儀式は別として、国家的な祝宴は避けるべきです。
憲法上の地位に就いたり、その務めを果たすことと、宴を催すこととは分けて考える必要があります。
饗宴の儀も儀式の内だと主張するとすれば言い訳であり、宴席が付き合いで必要だというのを国家行事として権力的に述べているに過ぎません。
被災者が予定通りに行なってほしいと考えたとしても、控える必要のあることもあります。
来賓も、辞退せずに参加したのであれば、批判を受ける余地があり、参加せざるをえないとすれば迷惑な話です。
皇室に政治責任はなく、皇室の本意でもないと推測され、安倍内閣の責任であり、良識のある国民が多ければ、退陣理由にもなり得ることであると考えられます。
おことばに関しては、国民の努力に言及している点で問題があると考えられます。
平和や繁栄を願うだけなら問題はないのですが、国民の叡智とたゆみない努力によって…寄与することを切に希望しますというのは、我が国の一層の発展が国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを希望するのだとしても、国の一層の発展について国民の努力によることが結びつけられている点で、国の一層の発展のための国民の努力も前提として求められていると解されるため、政治的発言にあたるのではないのでしょうか。
対応する形で天皇に対する総理大臣の寿詞でも、国民一同…努力ということが述べられていて、問題があります。
仰ぐというのも、象徴以上の意味合いを持たせる余地のある誤解招く表現で、不適切です。
象徴とされているということと、その存在を仰ぐかどうかということは、別のことです。
お言葉は内閣の助言と承認によるはずなので、天皇の政治利用という点も、安倍内閣退陣理由となり得ると思われます。
政権が政治利用したことを批判すると、野党側が政治利用したと強弁されたりするからかは分かりませんが、報道も含めて、問題点に言及されない社会のあり方自体のほうも問題です。
亡くなった場合の自粛のような同調圧力 (忖度) よりは弱くとも、即位を喜ぶべきであるという同調圧力が働いたことは、報道から窺えます。
何の疑問も無く祝える人は別として、祝意を表すことを控えることを自粛したとも言えます。