「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。)

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自分の感覚を社会に押しつけることはできないということを前提に、自分の感覚を述べる。

 

臓器を移植してもらって延命したいとは思わないし、そのために脳死という捉え方をすることが良いとも思わない。

 

( 心臓が止まった瞬間が死であるとも言えないし、心や思考の喪失について不可逆的な状態というのは重要であるが、その瞬間から物として扱って良いとも思われない。)

 

臓器移植の医療は過渡的なものであるように思われる。

 

しかし、現在、自分が移植を必要としているわけではなく、また、短命の人からすると十分過ぎる人生を送っており、自分の感覚の正当性を主張できるものでもない。

 

 

 

人体についても平等を考慮して腎臓を分け与えた人もいるそうだが、その利他主義は感情からは離れた論理計算を主体としているように思われる。

 

それが本当に正しいのであれば、皆がそうすべきだということになる。

 

論理計算の結果に人を従わせようとすると、自然な思いやりからは外れてしまう。

 

目・耳・手足なども計算して再分配がなされる社会が、思いやりのある社会とは言えない。

 

人々の恐怖感や自然な感情に対する思いやりも必要である。

 

 

 

妊娠中絶については、母体が危ぶまれる状況でなければ、産んでもらって社会が責任を持つのが理想だが、社会がそうなっていない以上は、女性にそれを依頼することは公正ではない。

代理出産をする女性もいるが、現代でも出産自体に危険性が伴なうようなので、女性が出産したいと思わないのであれば、社会的な圧力が掛かることも公正ではない。

 

他方、自分が胎児や受精卵に遡り、その時点で意思を表明できるとしたら、生きることを望む人がほとんどなのではなかろうか。

最後の審判ではなく、最初の審判がなされてしまうのも公正ではないだろう。

 

 

動物の肉を食べることに関して、殺害する場面を直視して、命の大切さを学ぶという考え方がある。

 

しかし、命が大切なのであれば、殺害しない方途を模索していくべきであり、現状追認で済ませてしまうのでは、人間が必ずしも命を大切にできていないことを再認識するにとどまる。

 

命が大切だからといって、亡くなった人を残さず食べるとか、有効利用するということはない。

 

肉食が一般的で、肉が食材として捉えられている社会で生活しているので、食べないという選択はなかなか難しい。

 

社会全体として、進むべき方向性を認識することは大切である。