駐留米軍経費負担の通称として、思いやりという表現を使い続けるべきではない。
その本質的な理由としては、打算に基づいていることについて、道徳的に大切な思いやりという表現が使われている点がある。
費用の負担よりも、米軍駐留の利益が上回るという計算が働いていて、それは他者への思いやりではない。
それら基の部分から目を逸らせると、協力関係という点では思いやりの余地が出てくるのであるが、思いやりというのは様々なことについて必要であり、一つのことだけに名付けるのが不適切であることも明らかである。
福祉関連予算は、思いやりに基づいてはいないのだろうか。
軍事協力を重視した安全保障政策に基づけば、経済協定の交渉で忖度することも思いやりで済まされることになる。
米国側からの思いやりは無くて良いのだろうか。
米国に守ってもらうというのは、戦力不保持についての、政府による脱法行為に起因しており、国民に思いやりを説くのは不正義である。
拳銃を使用できる外国の警備会社に、国民が拳銃を所持・使用する警備を依頼して良いわけではない。
禁止されていることを他者にさせればOKになるのなら、刑法は無意味となるのであり、そのようなやり方が道徳的にも法律的にも不正義なのは明らかである。
また、米国が覇権国として振る舞いたいということについて、日本が思いやりを持たなければならないわけではない。
日本が軍事的な海外展開をして、その経費を他国が思いやりで負担しなければならないというのがおかしいのと同じである。
思いやりは公共的に重要な観念であり、故意であろうが過失であろうが因習であろうが、政府は道徳的に間違った通称をやめるべきである。
仮に政府が使い続けたとしても、メディア (一般市民も) は公共性の観点から、不適切な名称の使用を拒否する必要がある。