日本の相撲は、相手を痛めつけることを良しとしない力比べ・強さの競い合いとして続いてきたと解される。
昔話なども含め、暮らしの中でそうした思いが受け継がれてきたと思われる。
金太郎と熊の相撲で、激しい打撃技を思い浮かべた人はいなかったであろう。
明確なルールとして定められていないからといって、本質的な面で相撲に反するやり方は間違いである。
日本の伝統的な相撲観に反し、悪影響も与えかねない競技を継続するのであれば、公益性が害されていると考えられ、公益財団法人として問題があることになる。
公共放送がそれを日常的に放送することも、公共性に反することになる。
過度に相手を痛めつける相撲は、伝統的な相撲と乖離した興行であり、総合格闘技などとの扱い方の違いなどが公平性の点で問題となってくる。
国技という表現は権威的・特権的で、あまり好きではないが、国技としての相撲とは必ずしも一致しない一興行団体の相撲として捉えられざるをえない。
一般的な視聴者や子どもが何気なく見ている番組で、精神的な苦痛や違和感を感じたり、悪影響が懸念されるような放送であれば、公共放送として問題がある。
当該興行団体の問題だとして放送し続けるのも、公共性に反する。
自分の強さを確かめたい・示したいのであれば、自分の能力以外の有利な条件は排除する必要がある。
推測だが、双葉山の立ち合いでの後の先は、勝つための技術ではなく、間違いなく正々堂々と勝ったと思えるための手法・スタイルのひとつなのではなかろうか。
明文のルールだけの範囲内での勝負に勝つことを目的にするのは、それによって得られる金銭や地位への執着と結び付いている。
また、記録上での比較を意識したり、記録の塗り替えが目標になると、数字上の勝ちが最重要になってしまうのかもしれない。
負けた側が潔く負けを認めないのがおかしいと感じられるような、公明正大な勝ち方が大切である。
戦い方に、惻隠の情や思いやりを関わらせるのが日本の伝統であろうし、公正さにもつながると解される。