ブログは主張だけでなく、自分に言い聞かせたり、確認するために記している面もある。
さて、亡くなってしまった飼い猫の写真を部屋に貼るというのも役立った。
写真の中でとはいえ、ねこが待っていてくれる。
生前に写真を撮ろうと思ったのは、面白い恰好をしていたときが多かったが、亡くなってから役立っているのは、普通にこちらに目線を投げかけてくれている写真だ。
とはいえ、スマホを向けても、レンズを見てくれるわけではない。
スマホをよけてこちらの目を覗き込もうとしたときも多かったかもしれない。
寝ているところや肉球なども良いだろう。
お尻側は遠慮して撮らなかったように思われるが、猫は気にしないだろう。
顔だけに焦点が当たると手足が短く写るので全身や体の模様も撮っておいたら良いだろう。
( 動画も撮ってはいなかった。)
ねこは何秒間も身じろぎせずに見つめてくるので、今もそこにいる ( かのようだ )。
異なる表情の写真を何枚か貼っておくのも臨場感 ? につながる。
飼い猫が向けてくれる視線には、情愛が感じられる。
勘違いではないだろう。
深い結びつきは、人間の家族と同じである。
猫の市販の写真集は、人間で言えばタレントの写真集でそれも良いが、自分の家族が自分だけに見せてくれる表情は特別なものである。
悲しみは度々湧き上がってくるのでその度に、亡くなってしまった大切な相手に対して、幸せのレッテルを張り直す必要がある。
幸せな生涯の物語だ。ねこの幸せ・幸せな日々に目を向ける。
相手への思いやりに基づき、リフレーミングを繰り返す必要がある。
思いやりの心から自分に課した義務だが、楽しかった場面を思い出せば良いだけだ。( ねこの気持ちを想うことも大切。)
他者を救うときやおもいやりの心を実現するために、自分を優先するほかないときのみ、自分優先は許される。
自分に落ち度がある場合には複雑になるが、相手との信頼関係や善意があれば、自分を責め、相手と負の感情が結び付いている状態を続けることは、相手のためにならないことだろう。
思いやりにとって客観性は重要である。
自分や家族が感染しないことが社会のためになるという考えで、不足しているサージカルマスク・消毒剤や様々な物を、少しだけならと一般的な状況にある身内や自分を優先して求めるのは間違いだ。
忠臣蔵を物語としては否定しないが、封建制度の下で思いやりが歪められている。
国家的な存在の喪失について、他者に自粛を求めるのも同じである。
亡くなった人への高い評価を、他者に強要している。
犯罪被害者の遺族に自分がなった場合には、仇を取りたいと思うことが想像されるが、それをそのまま肯定するのが正義とは考えない自分も並存する。
国家による刑罰の応報性に委ねるしかない。
(刑法上の応報刑・教育刑・行為無価値・結果無価値などについて、おもいやりの心に照らし合わせて考えるには至っていない。)
自分が犯罪被害で亡くなった場合も無念極まりないが、遺族が憎しみを持ち加害者の死を求め続けるよう望むことは、おもいやりの心に反すると考える。
それを基に考えれば、残された人の思いやりの心としても、加害者を憎しみ続けることではなく、大切な相手と幸せを結びつける決意と努力が大切になる。
ねこの話からだいぶ逸れたが、思いやりの心は、必ずしも亡くなった相手の固有の感情や社会的圧力には縛られない。