小中学生の時、やたらに作文を書かされて、憂鬱になった。
読点をどう打ったら良いのか分からなかったし、段落分けも分からなかった。
遠足・運動会・学芸会・社会科見学・夏休みの宿題その他。
そっとしておいてほしかった。
一二行書いて、机とにらめっこの時間が長かったような気がする。
書かせるとしたら、書けるよう個別に問い、誘導しながら書き出したりして、まとめたり、読点をどこに打ったら良いのかなどを教え、仕上げさせてほしかった。
教科書や本を読んだりしていれば、無理やり書かせなくても、書きたいことが出てくれば、大人になってからでも書けるようになるのではないだろうか。( 個人の感想 )
思い出は心象であり、、文章で心に残るわけではないだろう。
また、後から読み返して楽しめるかもしれないが、役に立つというほどでもないように思われる。
そして、今 改めて考えてみると、内心を告白することが強要されるのでは、子どもの人権が意識されていないようでもある。
本人の成長を助ける 教育上の必要性や、社会的に問題となる考え方に陥っていないかを知る 社会的な必要性があるのかもしれないが、強制性の程度や頻度などが考慮される必要はあるだろう。
分析の対象として捉えられるだけだと問題だ。
必ずしも強制ではなく、断っても良いという場合があるのか分からないが、子どもには 尚更 分からないし、大抵は 強要されている状況だろう。
作文と注射が 憂鬱だった。
予防注射のほかに、風邪を引くたびに注射されて、一生分打った感があり、成人後の健康診断での血液検査も苦手になった。
若い頃、体調を崩して血液検査した時に、クラクラしてブラックアウト的になって驚いたことがあった。
コロナのワクチンができても、マスクや手洗いなどをこれまで通りすることで、強制は勘弁してほしい気がしている。
更なる言い訳としては、ねこに三種混合ワクチンだったかをしてもらったら、ねこが しばらく調子悪そうにしていて、かわいそうだったことがあるのだ。
有効性や副作用だけでなく、自身の心の問題としても、特に生ワクチンの接種はできない感じになってしまっている。
世界を考えれば、子どもの時に予防接種を受けられたことは、恵まれたことである。
( 自分より下の境遇の人が存在するから、幸せなのではなく、自身への恵みに気づき感謝できるということが大切である。)
幸せなことであると、子どもの時から思えれば良かったのだろうが、子ども時代をやり直しても、うまく気持ちを持っていけなさそうだ。
( 飲食物等を含めて ) 感謝しなさい だと、説明や納得ではなく、強制の域を出ていない。
しておかなければならないという義務とセットの痛みとして捉えずに、自分のためになることをしてもらえる幸せに伴なう痛みと考え、子どもにも伝えるのが良いのかもしれない。
人権・人格を踏まえた、子どもへの説明責任ということも考える必要がありそうだ。
話しを省いて、痛いのを我慢させるだけでは、かわいそうだし、精神面で良くないのではなかろうか。