自助・共助・公助は、当たり前のように思われてしまうが、その順序付けには、自己責任や小さな政府が隠れている。
絆が付け加えられていても、それらに煙幕が張られてごまかされたイメージである。
自助を語りながら 絆に言及するというのは、絆という言葉も (250で記したような) 言葉泥棒による被害を受けているおそれがあるのではなかろうか。
矛盾が意識されなかったからなのか、冷たさを和らげようとしたからかなのかは分からない。
当たり前という 常識だけで 思いやりが意識されなければ、人が救われない事態も放置されてしまう。
自分で自分の肩を揉みほぐす 自助の代わりに、輪になって他者の肩を揉む 他助 (助他) でも、システムとしては成り立つ。
自分で自分の手を握る代わりに、手をつなぎ合わせても良いだろう。
必要性の他、揉み具合・握り具合として、自分でできることを自分でやった方がフィットして良いという面もあり、通常は各自の自由に委ねられることだが、好みのレベルではなく、助けというレベルでは、意識が他者に向けられていることは大切である。
災害の非難でも、余裕のある人が余裕のある時に役割を担うには、他者への意識が最初から必要で、自助の完遂後の共助・公助という順序立ては良くないだろう。
本能的に自助は当たり前なのに、わざわざ最初に持ってくれば、いくら最後に国がしっかり助けると言い添えても、実際には 第一責任者・第二責任者・第三責任者と段階的に責任感も薄くなる。
前段階の責任が果たされなかったため、仕方なく責任を負わされている という捉え方がなされてしまう。
国には、連帯責任を負う覚悟や優しさが必要だ。
人を当てにされては困るという意味合いの自助の部分は、他助 (助他) を意識してもらうことが、社会道徳に適う。
自助の意識が厳しいと、助け合いに至ることが難しくなる。
日本で長く生活していて、必要であるにもかかわらず、一律給付金を受け取ることができなかった人がいるのであれば、受け取れなくて仕方がない事情を知性で判定して良しとするのは間違いである。
優しさの欠けた知性を主とするのであれば、AIに 隷属すれば良い。
優しさを主とした上で 知性(あるいは、優しさを主とした知性)が使われなければならず、思いやりに反する状況が放置されてはならない。