「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。)

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寄付を扱う側の人の収入や資産が、寄付する側の人より多い場合には、扱う側がその分を肩代わりすれば良さそうなため、寄付に疑問が感じられてしまう面がある。

 

その辺りは曖昧で、一般的な寄付について、関係する人々の生活状況の比較ができるようになっているわけでもない。

 

そうは言っても、寄付については皆がその意識を持ち、参加するほうが良いのだろう。

 

 

現状は分からないが、人材確保のために給与水準を保つ必要があったりする面もあるのかもしれない。

 

これも現状は分からないが、運営費は、一般的な寄付とは別口で賄うべきだと思う。

 

寄付した分が、必要とされている先に確実に届くことは、重要である。

 

自前の稼働で運営費を調達できず、大口の寄付などでその人の影響力が大きくなり過ぎたりするのが良くないのなら、一般の寄付について、スタッフを支える分を明示して募るのが、たとえマイナス効果があるとしても、誠実であり、説明責任に適う。

 

救われる人のためになるなら曖昧にしても善いと功利計算する考え方には与しない。

 

情報開示によって適切な運営がなされ、組織への応援も込めて寄付できるようにしたほうが良い。

 

( 法規制もあるのかもしれないが )曖昧なまま、関係者の生活費込みになってしまうようでは、良くないだろう。

 

一般的な慈善団体が あこぎなことをしているとは思わないが、運営が緩くなる可能性のあるシステムであれば良くないし、何らかの団体の主催者や幹部が、様々な名目で金品を受け取るような場合に、提供する側が食い物にされる可能性が排除される必要がある。

 

税金でも同じような側面があり、厳しい視線が向けられるのだろうが、寄付だと善意に基づいていて緩くなってしまう面もあるだろう。

 

 

所得や資産の再分配について、国家として実現しようとせずに、各人への割り振りをそのままに、心理的道徳的強制による寄付だけで対応するというのは疑問である。

 

平均以下の所得で、自分の生活水準を大幅に下げるような寄付をするとすれば、自分で自分の身体にメスを入れる感じに近くなって、宗教や思想的な信念を伴なわないとなかなかできないだろう。

 

過少でも過分でもない適切な寄付額を、寄付しない人の分まで考えて各自で計算するというのは、おおよその額でも、根拠に確信がなければ、決定することは困難だろう。

 

正しさを自覚するなら、公的な政策に協力すれば良いし、協力しないでも済むのでは解決しない。

 

非効率や不信といった権力への懐疑があって、公的な対応が否定されがちなのかもしれないが、慈善だけでは負担が片寄るし、不十分で、権力に対する監視を強化する必要性などの問題それ自体の未解決を前提にすることは妥当ではない。

 

寄付の拡充で現実に助かる人がいることは良いが、それが社会の恒常的なシステムのようにして済まされてしまうのは良くない。

 

公的な解決を図っても、自由に寄付したり、個人的な夢に出資したりできる余地は残せるだろう。