「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。)

337

アダム・スミスの道徳感情論を文庫本で読んだはずだが、部屋がごちゃごちゃしてどこかに行ってしまった。

 

本を読んだり、ブログを書くより、部屋の整理整頓が必要なのだが、…できない。

 

 

整理と整頓は、工場などでの 5 S で区別されているようだ。

 

整理は、不要なものを捨てることらしい。( 人員整理だと怖いが。) 

 

整頓は、あるべきところに置くことらしい。

 

他の頭文字のSは、清掃・清潔・しつけ(又は、習慣) らしい。

 

しつけ というのは、それらをしつける習慣なのか、決まりを守る躾なのかよくわからない。

 

6S は忘れた。

 

しつけるというのは大事だが、躾けられる対象になるのというのは嫌な気がするので、習慣(化)のほうが良さそうだ。

 

3つのとか5つのといった表現で、こじ付け感がある場合もあるので、一般的にはあまり好きではない。

 

ただ、良い面もあるので否定しきれない。

 

コロナ対策の3密や、英語での 3C といったものは良いのかもしれない。

 

 

話が逸れた。

 

ロールズについて前に触れたが、「 正義論 改訂版 」( 紀伊國屋書店 ) を311ページまで読み、他の本に行ったままになっている。

 

原著を読まず、他の本で把握したことに基づいて書いていて、いい加減な人間かもしれないので、自分で判断できない人がこのブログを信用するのは良くない。

 

ミルトン・フリードマンの「 資本主義と自由 」は、飛ばし読みだ。

 

そういえば、「純粋理性批判」も「実践理性批判」も直接 読んだことはなかった。

 

このようなことの言い訳としては、その人の著作を研究しているわけではないことや、一般に他の偉人についても、弟子などによる伝聞に基づいて言及がなされるので、内容的に確かなら良いだろうというものだ。

 

 

思いやりや幸せについて考えるため 近年に 読んだ本を ( 全部ではないが ) 列記しておこうと思うが、その前にひとつ。

 

昨日、半年以上掛かって読み終わった本 ( 間で別の本も読んだが ) が、

 

「 社会はなぜ左と右にわかれるのか  対立を超えるための道徳心理学 」

著者 ジョナサン・ハイト 訳者 高橋 洋 ( 紀伊國屋書店 )

 

前に新聞の書評で見たときに読んでみようかと思って、結局思っただけだったが、今年、

 

「 人は、なぜ 他人を許せないのか?」

著者 中野信子 ( アスコム )

 

で触れられていて、読んでみようと思った。

 

 

「社会はなぜ左と右に…」の 結論のところの P.482~3 から抜粋すると、

 

○ 道徳一元論者を疑うべしと提言したい。

○ いついかなる場所でも、どのような人にも適用できる、たった一つの真の道徳が存在すると主張する者には注意が必要だ (それが、たった一つの道徳基盤に依存している場合にはなおさら)。

○ あらゆる時代のどのような社会も、特定の道徳基盤(もしくは六つの道徳基盤の特定の組み合わせ)から成る、ある一つの道徳マトリックスに必ず忠実であらねばならないと説く人は、何らかの原理主義者である。

 

と書かれている。

 

 名乗りを上げても仕方ないが、一般化して書かれているので、火の粉を振り払っておく必要がありそうだ。

 

このブログや私は、その批判に該当しないと思う。

 

優しさや思いやりと原理主義が結びつくとは思えないが、仮に該当したとしても危険なものではないだろう。

 

優しさや思いやりが社会をだめにすると考える人からは原理主義者と思われる可能性もあるかもしれないが、一般的には、優しさや思いやりを否定するほうが危険に思われる。

 

「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」というのは、他の価値を否定するものではない。

 

ただ、修正を迫る点では上位概念かもしれない。

 

本来の思いやりの正しさには普遍性があると私は考えているので、著者の範疇としては原理主義に該当する可能性があるとしても、複数の価値に基づけば、危うい原理主義にならないということもないだろう。

 

結局、優しさの原理主義・原理主義者という評価は、可能性としてはありえても、無意味なので、…… セーフ!

 

危険なのは、行き過ぎた行為を抑制できないことだろう。

 

何かを絶対視することは、思想の自由や信教の自由として認められるとしても、その教条・教義を解釈したり、それに基づいて行動するのは人間なので、誤る可能性があるため、人間の行為として制約を受ける。

 

行き過ぎについて 人間の判断が麻痺する可能性もある。

 

人間の解釈・判断・行為が誤る可能性があることについて、思想や宗教の違いを超えた共通認識になる必要があり、それについて、国際的なメッセージが常に発せられているようにすべきだろう。

 

 

さて、様々な研究が進んでいることや外国で知られていて自分は知らないことがたくさんあることに改めて気付かされた。

 

研究や実証的なことは、客観的に正しいのであれば、受け入れるのは当然として、訳者あとがきで「 ハイトが理性を軽視しすぎているという印象を受ける読者もいることだろう。」と記されている点については、私もそういう印象は受けた。

 

まず 直観というのは分かるが、それまでの理性的な思考が影響するし、直観の後の思考も、自分の考えに都合の良い理由を探すことについて、人間がそうできているからとしてお墨付きやフリーパスを与えてしまうような捉え方には与しない。

 

( 幸せなどが感じられる回路のようなものを否定するわけではない。しかし、道徳的な正しさの判断は、理性による必要がある。)

 

( P.92,93 で、自己省察として触れられているが、それほど頻繁には生じないとされている。しかし、重要なことに関する思考は、その例外的な部分とも考えられるだろう。)

 

思いやりを客観的に考えることでは特にそうだ。

 

何か言われたり責められて、その場ですぐに反応する場合と、様々な問題についてじっくり、あるいは断続的に考え続けたりする場合とでは違いがあると思われる。

 

その場で相手を言い負かすディベート力と、自分で自分のそれまでの考えを改めるようなことも含まれる客観的な思惟・思索(力)とは違う。

 

 

また、複数の道徳基盤があるからといって、それを他者に押しつけて良いわけではないので、最大公約数か最小公倍数か分からないが、合意するための道徳基盤としては、思いやりが最重要だと私は考える。

 ( リベラルの主張としては、正義の基底性ということなのだろう。)

 

郷党的な利他主義 (P.362) に向かうように人間ができているとしても、道徳がそこにとどまっていて良いわけではないし、一つの国へと統合されていくようなことも事実としてある。( 征服・制圧での、皆殺しの割合がどうなのか知らないが。)

 

人類一般に意識を向けることができないわけではない。

 

意識の問題として、排外的な心理を抑えて協力していくことを促したりすることが、道徳の役割だろう。

 

人間に何かしらの傾向があるからといって( たとえば、オキシトシンの作用 )、そのままで良いというのでは、道徳を放棄することになる。

 

 

P.199 で、その前のところから特定の哲学者の障がいの可能性について触れているが、それが個人攻撃の意図によるものではないという言葉を受け入れるとしても、どのような人の見解かで判断すべきではなく、示された見解そのもので判断すべきであると私は考える。

 

同ページで「心理学の目的は記述にあり、私たちは道徳的な心がどのように機能すべきかではなく、実際にどう機能しているのかを知りたい」と記されているが、結論に至る展開は、実際に機能している現状を知るだけではなく、追認すべきということになっているのではなかろうか。

 

 P.378 で、幸福について「他の人々や仕事、あるいは自分より大きな存在とのあいだに正しい関係を結ぶことで得られる」と書かれているが、長い物の是非を問わずに正しく巻かれるようなことでは、私は幸福を得ることができない。

 

 

ムッソリーニの著書の引用は、引用されたところだけでも、問題点は読み取れる。

 

「個人として人間をとらえる見方を否定する」「任務」「義務に基づく気高い生活」「滅私と自己犠牲」など。

 

( 誰が書いたかの問題ではないし、少し逸れるが、逆に、全体主義者やテロリストだとして人格を100%否定して、言動の全てを悪と認定することはできない。そうするとすれば、それはむしろ彼らの思想と親和的になってしまう。)

 

 

 

 

以下に、読んだ本を列記してみるが、全部理解できたわけでもないし、改めて手にしてみると、自分の能力からして当たり前だが、身に付いていない感もあり、少し悲しい。

 

( 順不同 )

 

これからの「正義」の話をしよう   今を生き延びるための哲学

著者 マイケル・サンデル 訳者 鬼澤忍 ( ハヤカワ文庫 )

 

 

他者への自由

著者 井上達夫 ( 創文社 )

 

 

平等主義基本論文集

編・監訳 広瀬巌 ( 勁草書房 )

 

 

平等主義の哲学 ― ロールズから健康の分配まで

著者 広瀬巌 訳者 齊藤拓 ( 勁草書房 )

 

 

リベラリズムとは何か  ロールズと正義の論理

著者 盛山和夫 ( 勁草書房 )

 

 

リバタリアニズムを問い直す  右派 / 左派対立の先へ

著者 福原明雄 ( ナカニシヤ出版 )

 

 

功利主義入門―はじめての倫理学

著者 児玉聡 ( ちくま新書 )

 

 

功利主義の逆襲

著者 岩松良樹 ( ナカニシヤ出版 )

 

 

残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する

著者 エリック・パーカー   監訳者  橘玲   訳者  竹中てる実 ( 飛鳥新社 )

 

 

反共感論 社会はいかに判断を誤るか

著者  ポール・ブルーム   訳者 高橋洋  ( 白揚社 )

 

 

あなたが世界のためにできるたったひとつのこと〈効果的な利他主義〉のすすめ

著者 ピーター・シンガー  訳者 関美和 ( NHK出版 )

 

 

幸福の哲学 アドラー×古代ギリシャの知恵

著者 岸見一郎 ( 講談社現代新書 )

 

 

正義とは何か

著者 神島裕子 ( 中公新書 )

 

 

倫理学入門

著者 品川哲彦 ( 中公新書 )

 

 

 

学問の自由が個人に保障されているというだけだと、個人的な読書と思索というレベルになってしまう。

 

 

研究者の著書を列記したからといって、箔が付いた訳ではなくまた、このブログが信用できるようになった訳でもない。

 

 

ただ、「思いやり」というのは私の専売特許ではないので、私がどういう人間でも関係ない。

 

「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」

というのは、帰ってきたウルトラマンが、ウルトラセブンから授けられた ウルトラ・ブレスレット のようなものかもしれないが、たとえは各自で考えられたい。

( たとえは要らないかもしれないが。)

(前にダイアモンドや明星にたとえたような気もするが、前の記述を確かめて完全な整合性を保とうとは思っていない。)

 

思いやりの心は、皆 既に授けられていると思われるが、仮に思いやりの心が分からなくても、知性で補うことができるはずだ。