神戸のお嬢様パンダ タンタン をテレビで見た。
確かに可愛い。 ねこの可愛さと似ている。 まさに大熊猫。
ネコ目(もく) に食いつきそうになったけど、犬もネコ目だったのね。
でも、似る理由はあるんじゃないのかな。
中国に帰るという、その施設は広くて、自然的で良さそうだ。
タンタンの望みを推し量るのは難しい。
生まれ育った、仲間のいるところなら、帰るのもいいのかもしれないが、20年も慣れ親しんだ、人や場所と別れて、環境が良さそうな新天地で新たな暮らしをするというのもどうなのかという気もする。
一緒に過ごしたコウコウが亡くなって 一頭だけでいることが続いてしまった部分を、飼育員の方との交流で埋められたかもしれないし、必ずしも埋めきれなかったのかもしれないし、分からない。
動物園は、人が動物に接したり、理解したりすることで、動物愛護にもつながる面を否定できないが、連れてこられたという面もある。
動物のほうにも、食べることには不自由しないという良さはある。
鉄柵の檻は、慣れて ねぐらと変わらなくなるのかどうか。
家ねことは違うんでしょうけど、長く一緒に過ごして、パンダのほうでもそれが分かっているのなら、他のパンダに来てもらったり、今の環境をより良くするほうがいいと思うわ。
契約も 人間の都合よね。
パンダ全般のことというより、タンタンの幸せについて、向こうの方にお話しを聴いてもらったほうががいいと思うわ。
にゃん道的見地から。
タンタンが竹をくわえた画像についての、竹をくわえた女の子 という表現は ... どうなのだろう。
( それはそれで、笑かしよんなぁと思えるけど。)
たとえる表現だけで、権利関係上問題になってしまうのか、それとも、ファンなどへの配慮でそうなるのか。 あるいは、宣伝になってしまうからなのか。
( 少し違うが、民放で、スポンサーと競合関係にある他社の製品について、過剰に排除しようとしたりするのは、電波を公共的に捉える観点からは問題があると思う。)
いずれにしても、ちょっとしたことで そこまでしなければならないような社会状況は、行き過ぎと私には感じられる。
自分でも表現を改めたりしている。
自分で萎縮しているだけなのか。それとも、もっと自粛しなければならないものなのか。
たとえたり 言及したりするだけのことと、盗作かどうかとか、商業的な利益を不当に得るようなことなどとには違いがあると思われる。
たとえたり、言及したりするような面での 思想や表現の自由は、別に分けて意識され、権利として擁護される必要があるように思われる。