「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。)

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向こうに進め ( あるいは 止まれ ) と言っているときに ( 言った後も ) 、違う方向に進んでいる人がたくさんいたら、社会全体の視点からは、流れが定まっていない状況ですやろ。

 

感染防止対策をしっかりやっていれば 日中の様々な活動を認めるというような姿勢が示されていたはずなので、局面が違ってきたとして、明確に改めずに、人の流れが減っていないと危惧するのでは、理解に苦しむわぁ。

 

 

 

病床の確保と人材調整は、分けて考えるほうが良いのでは。

( 既に指摘されているのかもしれないが。)

 

病床の確保を小規模な病院に強制して、これまでの受診者を カルテの引継ぎで 他の不慣れな病院に通わせるのは、同じ病院の受診日が少なくなることより負担が大きいのではなかろうか。

 

コロナ病床は、区画できる大病院や、新(仮)設 によって対応して、

 

専属以外の医師・看護師で必要な人員については、日本全体で協力してもらい、

 

街中の小さい病院については、休診日・休診時間を新たに設けてもらって、コロナ対応での派遣について協力してもらい、地域医療も含めて交代・補完がなされるように調整する、

 

というような状況なのかもしれないし、研修を含め、それをすぐに実施できるようにしておかなければならないのかもしれない。

 

 

 

 

あるテレビ番組で、ある専門家のシミュレーションについて、前回のものが予防策をとらなければ数十万人が亡くなると予想していたといって、うさん臭そうな表現で扱っていたわ。

 

予防策がとられて感染が抑えられたわけだし、他国で深刻な状況になっていて、自国の安全性が不確かであれば、悪くならないように対処しておく必要があるはずよ。

 

( 前提とする数値が変わったことなどは、感染状況が進めば変わると思われるので、問題視する理由がよく分からないわ。)

 

賭け事の 儲け損ないで 責めるような感覚にも思えてしまったの。

 

見通しが悪い道路状況で、減速・停止を不十分なまま進行して、特に何もなかったじゃないかと責めるようなものでもあるわ。

 

個人が冒険に出掛けるような感覚で、国民全体のリスクマネジメントを考えるわけにはいかないでしょ。

 

 

はっきり分からない状況だと 政府の対応が後手後手に回るのは仕方ないという見解は、様々な予防的措置を否定するものだわ。

( 予防的措置という言葉だと、別の議論があるようなので、裁量の範囲内の危険回避の対応といった表現に修正しておいたほうが良いのかもしれないわね。)

 

不確かな状況でしなければならないことを、できるのにしなかったのよ。