トリアージせざるをえなくなってきていると言われているが、内容が必ずしも明らかではない。
私の考えとしては、弱者保護 (治療の必要性) や平等性の範囲内の選択判断はやむをえないものだが、その範囲を超えた優先順位付けをすべきではない、ということになるかもしれない。
( 一般的・世界的に?考えられてきた トリアージを 肯定しているのか 否定しているのか、分からないが。)
時間的な面も含めて、救う側が能力を自覚したうえで、現実の順番で救うのが原則だろう。
弱者を優先することは社会的に求められていると思われるのでそうすべきだが、能力的に救うことができない場合や、弱者かどうかと関係ない状況では、平等性に基づくことになる。
病床や特別な治療について 空けておくという判断も、治療の必要性や平等性の観点から 医療資源について予め決められた基準に基づいて なされる必要があるだろう。
保健所の業務は、効率的な対処のための優先順位付けが求められるが、人の扱いに関わってくれば、同様の観点が必要となってくる。
真面目な話でも、らくがき帳として書いているだけなので、必ずしもネット上の意見を検討したうえで書いているわけではないの。
あたし、少し苦しくても笑っちゃうお嬢様で、TPO関係なく、らくがきもしちゃうの。
余計な とりせつかしら。
ごめんなさいね。
治療を譲るカードの話について、テレビでやっていた。
譲る意思を示すというのは、個人の自由で、尊重されるべきだが、医療は公共的になされるので、思いはそれぞれあるにしても、譲る相手・対象に言及するのは良くないだろう。
自分がどのような治療を希望するかということと、優先順位付けに関する意見は、別のことである。
若い人に譲るという定型の書式は、譲る先を限定している部分に だいぶ重きが置かれているようにも思われる。
譲るというよりは、治療を辞退する意思を示しておけば良いのではなかろうか。
前提とされている価値判断が問われないまま 一般的に広まると、他のことでの価値判断に影響を及ぼすおそれもあるし、社会的な圧力にも なりかねないだろう。
治療上の平等性は、各人のそれまでの人生の長さ・内容などに立ち入って判断すべきではないと考える。
立ち入ることは、優先順位付けの思考・範疇だろう。
平等の内容を検討して、治療について優先順位をつけても ( 功利計算ではないので ) 、不運を再編成するだけかもしれない。
( 犯罪の加害者と被害者といった場合には、直接的な帰責性があり、公正さの観点から、優先する必要が出てくる 。 誤認があると 酷いことになってしまうが 。)
十分に生きることができたから譲るというようなこととは別に、( 仮に人類の存亡がかかっているとしても )生存の可能性が高い属性や地域その他、 助かる可能性を比較して、可能性の高いほうを優先するというようなことは すべきではないと考える。