公的な場で知見を求められる場合に、必要な内容でありながら、政治的なこととして控えるのでは、統治行為論と同じで、控えること自体が政治性を帯びるということを理解すべきだろう。
コロナ対策として、人々・人間の行動や規制について幅広く見解を示しながら、五輪という人間の営みについては控える、遠慮がちというのはおかしい。
国家権力側への物分かりが良過ぎて、知見として何をわきまえるべきか、考え違いがありそうである。
諮問機関などで、知見としての魂を 政府に預けさえすれば、政府協力者として、後の報償その他、社会的身分安泰で喜ばしい ということなのであろうか。