「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。)

651

通常の社会活動の必要性は理解できるが、バランスとか、総合的な判断とか、自殺者が増えるから、などの捉え方には賛成できない。

 

たとえば、走行する電車の前に飛び込む人が増えたとしても、交通手段として鉄道を廃止するということにはならないだろうし、経済的に貧しい国が豊かになると自殺者が増えるからといって、経済的な豊かさを求めるべきでないなどという見解は、市場経済を信奉する専門家の中にはないだろう。

 

必要とされる政策について、自ら死を選んでしまう人が増えるからという理由で否定するのは、主眼が別にあるうえでの、人質のような理由付けになっており、公正とは思えない。

 

順序的に先に対処する必要があるのに傍観するのは良くないし、同時にバランスを取るかのような捉え方は誤解だろう。

 

アクセルとブレーキを同時に踏む政策で長引いてしまった失敗体験について、正しく理解されていないのかもしれない。

 

 

様々な必要性の判断は、声高な主張各所へ忖度するバランスとは違うし、様々な病気への対処の必要性もバランスとは違う。

 

災禍のため通常のことができなくなるのは仕方ないが、コロナか一般医療かの括りの問題ではなく、急を要するかどうかで判断される必要がある。

さて、二年近く経つのに検査キットが足りないというのは困るが、足りないのであれば、一般的な確認より、直接的な医療での使用が優先される必要がある。

 

 

他者との接触を断つべきかどうなのか分からないのでは、行動を抑制することができずに感染拡大につながる。

 

検査体制が不十分な状況は、それもまた、アクセルとブレーキを同時に踏んでいる社会状況と考えられる。

 

長引くことが、様々な悪影響を増幅させる。

 

 

感染症に対する個人レベルのリスクは、各人の判断が尊重されるべきである。

 

ただ、通常なら当たり前のことでも、戦争や大きな災害時にはできなくなるのだろうし、多くの人の不幸の中で無理に行なっても、真に良い思い出にはなりそうもない。

 

 

一人の人の一生の中で、年齢ごとに価値をつけると、社会の中で、人の命の価値に差異を設けることにつながる。

 

年齢によるトリアージのようなことは、人の価値に優劣をつける優生思想と隣り合わせのように思われる。

 

高齢者と若い世代のどちらを優先すべきかというような捉え方をせずに、迫っている事柄から対処すべきである。