「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。)

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NHKの現在の番組名で、「にっぽんの~」「ニッポンの~」というのがいくつもあるようなのだが、「にほんの~」「二ホンの~」という番組は 無いような気がする。

 

「日本」という漢字表記が入る番組名も、アナウンサー等 職員は「にっぽん」とのみ 発音している。

 

 

日本国民は、正式な国号としては「にっぽん」で、「にほん」は正式な呼び方ではない などとは決めていない。

 

放送局が 社会の合意を得ずに「にっぽん」に統一して「にほん」を排除するというような、放送上の因習は改められるべきである。

 

(「にほん」を正式な読みとすべきだという意味ではなく、「にっぽん」だけが正式で「にほん」は亜種・亜流であるかのような扱いはおかしいということである。)

 

憲法改正や国民投票に基づいたうえで、尚且つ、押し付けになっても国民の間にしこりが残らないような状況であれば、そうする必要もあるだろうが、国民が決めてもいないのに、放送局が 国民の意思を前提とせずに 電波を使って実践しているというのは問題である。

 

( たとえば 憲法改正に関して、具体的な日程に関わらず、各 放送局が 特定の立場に立って 放送していて良いわけではないだろう。)

 

「にほん」という呼び方が 国号として正統性がないように扱われ、排斥・排除されている現状に、憤りを覚える。

 

 

一般的な漢字の読み方の問題とは違い、自国の呼び名は、国の極めて基本的で重要な事項として、民主主義の基礎に関わる。

 

民主国の国名は、歴史的・学術的な必然や権威で決まるのではなく、国民の選択次第でなければならない。

 

 

昭和9年の文部省の決定が、閣議決定には至らなかったということは、有効というよりは否定された状態にあったと解すのが妥当である。

 

太平洋戦争に向かっていく時代背景でのことに疑問も抱くし、また、当時、国民に主権は無く、政治参加という面でも、女性に参政権が無かった時代である。

 

 

日本国憲法が様々なことを受け継いでいるとしても、「にっぽん」とは決定されていない状態、「にほん」とも「にっぽん」とも呼んでいた状況を引き継いだというだけである。

 

そして、正式な国号というような、憲法上でも基本的で重要な事項について、憲法より下のレベルで決めてしまうとすれば、それは 憲法の内容を補足するというようなことではなく、憲法より上位から指示することとなる。

 

憲法の下にある行政権の閣議決定で決めて良いことでもないし、いわんや憲法の下にある放送法の条件下で存在する放送局が行なって良いことでもない。

 

 

さて、アナウンサーが原稿を読むときに、「にほん」と読むべきか「にっぽん」と読むべきか、民間の固有名詞での使い分けも含めて判断するためか ( 原稿にフリガナが付せられていたりカナ書きだったりするのかは知らないが ) 、国名としての「日本」を読むときに、 少し間が空いたりして、話の趣旨として強調する必要が無いにもかかわらず 過度に強調されることも多い。

 

( 音の強弱や上げ下げのほか、必要以上に間を空けることでも強調される。)

 

また、「に」から「ぽ」という破裂音に移行するに際しては、促音便で「ため」ができて、( 破裂音と相俟って ) 「にっ」の部分も 強くなる傾向があるように思われる。

 

 

ニュースなどの中で、繰り返し「日本」が出てくることもあり、強調される発音の仕方だと違和感も募る。

 

( 考え違いの正しさに縛られた ) 公共放送の 統一・統制により、伝達上 不向きで 不自然なことが、なされ続けている。

 

自然に場面を選んで使い分けている 一般の人のほうが 賢明である。

 

 

現状で、一方の呼び名を正式ではないとするようなことは、分断を招く。

 

主権者教育・主権者意識が重要であるとすれば、放送局のそのような越権行為の現状が匡されることを願う。