人権擁護のためには ( 人の命・生を大切にするためには ) 、人権を否定する勢力に対しては、命懸けで 戦わなければならないようだ。
弱肉強食の帝国主義を過去の遺物として、今日の国際社会の安全保障と向き合うとすれば、一つの地域が侵略されようとしている場合 ( 殊に、一般人の殺害にまで踏み込まれた場合 ) には、世界各国は、自国の都市の壊滅をも覚悟して対処しなければならない、そのような事態に陥っている。
( 侵略している側が、核兵器の使用を否定しない状況では、核爆弾が投下されることによって死ぬ覚悟が必要ということになる。既に、自然災害や交通災害で死ぬリスクと同じように存在していたのだろうが、現実的な覚悟が必要になっている。)
国際的な脅しに対しては、世界中の人々が 覚悟を決めて向き合わなければ、それぞれ個別に被害を被る可能性がある。
相手は退くかもしれないし、退かないかもしれない。
好戦的になるべきでもない。
ただ、自分たちが国際社会の一員として尊重してもらいたいと思うのであれば、他国が侵略を受けた場合には、経済面だけでなく、自らの危険も覚悟しなければならないのだろう。
また、( 自分たちも含めた ) 核の惨状を避けるために、( 生物・化学兵器だけでなく ) 通常兵器による ( 他国の ) 惨状を甘んじて受け入れるということには、倫理的に無理がある。
自国の防衛を強化したり、同盟関係の強化で現状をやり過ごすのでは、倫理を語ることはできないし、国際環境を整えなければ、困難が待ち受けている。
( 日本で放射能汚染が深刻になれば、米軍は日本を離れるだろう。)
本気の覚悟を持たなければ、国連の改革もできない。
国連は、国際平和組織として、集団的自衛権の枠とは関係なく、集団安全保障として対処する必要がある。
影響力のある侵略国によって機能しない国連の安全保障機能に関する改革は、覚悟無しでは進まないし、侵略国を除外して国際組織を再編成しても同じだろう。( 遊びと違って、やめたり、排除しても、解決には至らない。)
軍事力・軍事バランスは、各国・地域によって違いがあり、( NATOの存在など ) 役割には違いがあるだろう。
( 自国の軍事行動を否定することも、現実的な国際貢献である。ただ、非武装が一般的になれば、軍事的な役割を果たす必要も出てくる。)
功利主義は、功利計算を どのようなレベルで捉えるか によると思われるが、功利計算を利用して、殺害したり、破壊したり、見捨てたり、逃避したりというのでは、倫理とは言えないだろう。
現実と倫理の両面に対して 真摯に向き合うとすれば、究極的な覚悟から逃避すべきではないように思われる。
( 相手を追い込まないほうが良いというのは 無難な選択肢のようでもあるが、単に被害が現実化していない立場での功利計算ということではなく、覚悟を伴なったうえでの対処である必要がある。)
( 実際に人の命が奪われ、弾圧が行なわれている ) 権威主義・専制主義 に対しては、戦略・戦術的な見せ掛けではなく、本気の覚悟で立ち向かう必要がある。