外見至上主義を自ら掲げる見解は、極めて稀であろうので、主義・イムズとしては、それを否定する立場のほうにあり、アン?ルッキズムといった捉え方のほうが適切であるように思われる。
外見の印象に影響されるのは傾向性であって、意識的な主義・主張とは違う。
( 個人的な経験としては、面識の無い人が会話している場面に たまたま居合わせたときに、美醜をステイタスだかステージの違いとして捉えているといった話をしているのを耳にして、驚いたことがあり、外見至上主義も存在はするのだろう。)
政治家の発言への反応は、外見至上主義への批判というよりは、飾り物扱いをしているのではないかという疑念からと思われる。
( 選挙ポスターで印象を良くしようと気を使っているのであれば、何を批判しているのかよく分からない。)
富の分配・平等化を、個人の能力や魅力の否定にまで推し進めてしまうと、没個性・非多様性・非人間的な社会を目指すことになりそうだ。
道徳的には、外見で蔑んだりすることが問題であり、人の良い面までを否定するのは筋違いだろう。
好みや芸術性に関する感性を、思想的な普遍性によって否定するのが良いとも思われない。
交際・結婚相手を、外見ではなく、性格で選ぶほうが良いといっても、義務感から人格者を選ぶわけでもないであろうから、性格的な好みや利得からというに過ぎない。
外見の好みだけで選んで性格が合わなければ苦しいし、性格が合うと思っても、違う面が気になってきたり、自分の気持ちが変わる場合もあるかもしれない。
採用・登用に関しては、バイアスを廃しつつ、総合的な判断をすることが、利益や社会的な公正さに繋がるのだろう。
思いやりが意識されれば、外見について、極端な崇拝・排除・否定には至らないだろう。