「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。)

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国の儀式には、公共性が求められるので、国葬について、政権の一存で決定することは問題である。

 

前例を踏襲するだけでは、判断力に欠けている。

 

政権運営上の利益も、多分に重なり合っているのだろう。

 

( ゆ党的な野党議員も たくさんいるようなので、滞りなく挙行されるのかもしれないが )

司法上、被害が認定されている事件に関する宗教団体の関連組織の活動に賛同するメッセージを送るなどの行為は、一般的な付き合いの範囲を超え、元首相・国会議員として、被害者を無視する行動であり、公共性に反するのであり、国葬のような扱いは見送られるべきである。

 

 

安倍氏に対するネット上の批判や、マスコミの扱いが、加害者に影響を与えたという見解があるようだが、安倍氏の政治的な見解への批判ではないと伝えられている供述と矛盾する。

 

被害を被った相手方に、影響力のある人物が味方していれば、その人物を恨み、ターゲットにするということは、一般に推察できる。

 

 

事件の分析をするにあたっては、"加"害者側の視点に立つ必要もあるが、"被"害者への思い入れが強いと、"被"害者の評価を下げるような見方を排除してしまい、客観性を保てなくなるのだろう。

 

たとえば、仮に、今回の加害者の何らかの活動に関して、敬意を表するというようなコメントが元大臣などによってなされたとしたら、安倍氏を支持する人々は腹立たしく思うだろうし、必ずしも支持して来なかった人々でも眉をひそめることだろう。

 

一票一票、票を積み重ねる必要があるといった一般論に納得することもできないはずだ。

 

必ずしも深い関係でなくても、賛同するような言動があれば、問題なのである。

 

 

また、選挙に配慮できる心境で 殺人を犯すとも思えない。

 

選挙が民主主義の根幹に関わるからといって、選挙期間中だけはだめだとか、政治家だけはだめだとかいうことでは、おかしな要望や合意となる。

 

受けとめ方の問題として、民主主義とは切り離して捉える必要がある。

 

 

外圧とか海外の評価になびく気質が、今も日本では活きていそうだ。

 

芸術やスポーツ・文化などは海外からの再評価ということも良いだろうが、政治家や事件の評価・分析に関して、その人物の国内での姿勢や社会状況をよく知らない人々の評価を逆輸入して、お墨付きのように思ってしまうのは いただけない。

 

海外の人々が事件の真相を知りたいと思っている一方で、当の日本人が海外からの評価待ちのようになってしまっては、真相に辿り着くことはできない。