侵略に対して戦うといっても、現実的には、戦う能力を持ち合わせていない人のほうが多いだろう。
ドローンなど戦い方が変わってきてもいるが、ネット空間だけで済むわけでもない。
土嚢の替わりに横たわったり、地雷替わりになることが許されないのも、現実である。
むしろ非暴力抵抗主義・不服従の、平和主義のほうが、現実主義であるとも考えられる。
自衛権を、架空の不磨の大典上の金科玉条の権利として扱うほうが、三途の川べりのお花畑とも言えそうだ。
防衛に関して、一般の行政サービスと同じに捉えることは、無責任である。
憲法13条を根拠にするのは、命に係わることに関して、二種類の人権を設けることになり、不当である。
憲法に明記して、誇りに訴えるようなことも、現実主義ではなく、精神主義によって利用支配することと表裏一体である。( 祀ったり、参拝したりも )
物事の提案のレベルで責任を問われるべきではないが、責任を果たせずに他者に強いるような言論は、言論の自由には責任を伴なうと一般に言われるような意味としては、無責任な言論と言えるだろう。
逆に、体力のある人だけで、国のあり方を決めて良いわけでもない。
補給や支援体制も含めれば、一人だけで責任を果たせる人は誰もいない。
戦うか不服従かといったことについては、自分だけでは担いきれない、責任を果たしきれない部分について、他者がどう考えるかということに、謙虚に耳を傾ける姿勢が必要だろう。
原発に関しては、人間が原子力を制御しきれていないという現実を無視して、現実主義のアプローチとは、これ如何に?
最終処分について、地震や火山・地殻変動を含め、何万年も管理できると考えるほうが、空想科学の域をを出ていないというのが現実だろう。