宗教だけではないが、どのような権威であろうと、批判を許さないということがあれば、それは改められなければならない。
主義でも教条でも、預言でも指導者の言説でも、示されたものは人間の解釈・適用を介したものであり、それに関して 無謬ということはありえない。( 状況の違いもある。)
批判を許さない絶対的な権威・正義は、深刻な被害をもたらすリスクを抱える。
思いやりでさえも、それ自体としては正しいと考えるべきではあるが、具体的には 解釈・適用に委ねられているのである。
組織関係に於いて、個別・具体的な指示がなくても、組織の日常の教えに沿って実践がなされていれば、上位者側としての組織の責任が見逃されてはならない。
AIの設定と自動学習の関係と同じとも言えるだろう。
予想外の特異な行動でもなければ、支配関係上、人間もAIも同じと考えられる。
他者に害をもたらせば、社会的に放任すべきではない。
信じるということは、疑念を排除して 対象を肯定する精神作用であろう。
疑いを持たずに受け入れるということであるから、 人生全般に影響する指針・思想信条を信じるよう、他者に対して個別に働き掛けることは、責任が重大であると認識する必要がある。
教義・教条が示され、教え導く事実があれば、責任を免れようとするのは、詭弁である。
魔女狩りで、魔女として処刑されてしまった人には、認定されるべき事実が存在しなかった。
逆に、責任を負うべき事実に向き合わず、むしろ狩る側の思考回路で、一般外部社会のほうを、魔女やサタンと見なしたりすることが、組織の問題性を徴表しているのだろう。