ポーランド ( 国民 ) のミサイル被害は、流れ弾によるものだったということなのだろう。
他国に被害が出たことで、ウクライナが迎撃しにくくなり、それをロシアが利用するという見立てに、なるほどとは思ったが … 。
それも含め、事態への適切な対処が必要となっている。
NATOの規約や国際法上、流れ弾的なミサイル被害がどのように扱われるのか、また、ポーランドがどのように捉えるのか分からないが、流れ弾に対しても、自国を守る必要があり、国境付近や自国方向のミサイル攻撃は、ウクライナとの協議によって、ポーランドも協力して迎撃するということに、正当性が見い出される。
( 迎撃ミサイルの誤射や破片に対する防御ではなく、元のミサイルそのものに対する迎撃の正当性である。)
一方で、流れ弾による被害の確率が低く、戦争の拡大を避けることを優先しつつ支援側に与していくとすれば、被害を受忍し、避難したりするということになろう。
ただ、個別の受忍で済ませることは、集団的自衛の意義や信義を問われることでもある。
また、個人レベルで他者を救う能力がなく、やむをえないというのと、社会全体で対処せずに切り捨てるというのとでは違う。
社会的なリスクが現実化した場合には、社会全体で受けとめなければならない。
一部を犠牲にして、それ以外で社会の存続を図ることは不正義であり、決して正当化することは出来ず、身勝手さや背信が浮き彫りとなる。
見捨てる、見捨てられるということを社会全体のリスクとして受け入れていると判断するためには、現場に行って帰って来られない中で そう言える人が多数を占めるような状況でもなければ、いい加減さや身勝手さの領域での立論に過ぎないと考えられる。
( 置かれた立場を異にした状況での多数決的な判断は、正統性を欠く。)
そして、そのような選択が真に究極的なこととしてではなく為される可能性は多分にあり、そのような社会は、平時でも助け合わない傾向の社会であり、人は幸せにはなれない。
社会的な繋がりは、国際社会・国連の現状の制約があるが、方向性を認識しておくことは重要である。