「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。)

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( 10年 ひと昔 ということであれば )

 

昔々 ある所に、朝礼で ガムをクチャクチャ噛んでいる 責任者が 居りました。

 

( そこは日本の会社で、お菓子を食べながらの会合でもありません。)

 

緩い分、優しければ、まだ良いのですが、部下をどやしつけるようなことも度々ありました。

 

仕事が進まずにアルバイトの人が苦労していても気に掛けず、定時に帰っていました。

 

同僚の結婚を祝っての食事会があり、その人だけ家族連れで参加していましたが、皆で和気あいあいということでもなく、席が近くの人が その人の小学生の娘に話しかけると、遮って場をしらけさせたりしました。

( 休日の家族サービスとしての外食として利用したようでしたが、妻子はその人に服従的で、萎縮しているように見受けられました。)

 

もしも、神様がいるのなら、彼をお救いください。

 

ただ、彼を救うのなら、周りの人・関わった人をお忘れなく。

 

神様を信じ、神様に頼って、神様の命令に服し、人を完全に赦すことによって 幸せになる道があるのでしょうが、自分で自分の心の中で折り合いをつけて幸せになる道もあるでしょう。

 

 

 

自分が幸せにならないと、人を幸せにできないとか、自分に優しくなければ、人に優しくなれないという考え方は、間違いだろう。

 

人間・動物として、特に意識しなくとも自己保存本能が働き、利己は たやすい。

 

自分のことだけ優先では、人を幸せにできるはずもない。

 

人に優しくなければ、自分が幸せになることも不可能である。

 

( 才能を伸ばすことや社会の進歩などは、考慮が必要であるが、経済的に中央値より上の層を優遇したり、後の世代を危険にさらす政治などは、改められなければならない。)