・公共性・
公共性という点では、利用しないから費用を負担しないというリバタリアニズム的な主張には賛成できません。
一方で、政権や総理大臣への批判を控えるような公共放送は問題で、未熟さー未だに熟せないのかーが情けないと思います。
不偏不党というのは、政権への批判を控えるべきなのではなく、報道の役割という観点からは、どのような政党が政権の座に就いても批判・チェックを怠るべきではないこととしても捉えられるべきです。
そういう面について、政権を支持する人々から苦情が寄せられても、公共放送としての存在意義からして、揺らいではならないと考えられます。
人や言論の主体への攻撃ではなく、言論や政策の内容について、公共性に基づいてチェックする姿勢が大切です。
現状の運営・法制度は見直しが必要です。
機械や装置を設置した後で、調整する必要があるのと同じです。
悪い傾向が出てしまったことを認識・認定できずに、放置されるのは問題です。
政権が介入・利用したり、影響力を行使できる余地を無くす必要があります。
国営ではなく政府から独立していて、私人からも支配されない公共放送は必要だと思います。
集合のベン図で言えば、公共の枠の中に、国や自治体の枠が含まれていると捉えられるのかもしれません。
国や自治体の枠外でありながら、公共性の枠内である性質をしっかりと認識・把握して、運営がなされる必要があります。
問題を抱えたままの公共放送を擁護することは困難ですが、視聴しない人が受信料を支払わないということだけに賛同して、他の政策について白紙委任したような結果になってしまうのは良くないと思います。
一点だけでしか活動しないのもどうかと思いますし、他の政策について伏せて、政治信条なども説明不十分なまま当選して、他の活動に関して信任を得たと考えるのも問題があります。
最低限、政治信条が理解されたうえで票を得なければ、様々な政策に関して、支持者・投票者から信任を得たとは言えず、国政政党としての特別な扱いが認められるられことも含めて、民主主義を危うくする手法であると考えられます。