「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。)

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部屋を片付けられないのは、生まれつきの要素が大きいと、テレビでやっていた。

( テレビだけでなく、文学なども読んだほうがいいのは分かってはいるが。)

 

片付けられない自分を責めなくても良さそうだ。

 

ただ、大人は色々と工夫もできる余地があるらしいので、時間か曜日でも決めて、捨てる物を決める時間を少しでも設定できればと思う ….. 。

 

ブログのごちゃごちゃを直すことまでは無理そうだが。

 

 

別の番組で、自由は、わがままなものだから、身勝手だと言うのはおかしいという話があった。

 

確かに、自由の制約について述べるときに、たんなる わがまま感・身勝手感からではいけないだろう。

 

 

別の話。

被害を受けた場合、個人でも国家としても、相手を罰したいと思うのが自然だ。

 

ただ、被害の事実を変えられないのは、大切な相手が亡くなった事実を変えられないことと同じであるし、不幸を恨み続けても幸せにならない、ということも確かだろう。

 

応報として刑罰が必要なのは、悪いことをして何の責任も問われないのでは、被害者は納得できないし、社会も成り立たない。

 

ただ、仇討ち・仕返しの代行のようなことで満足を求めても、幸せには結びつかない。

 

 

同じ立場にある人々が語り合えて、悲しみが和らげられるのは良いことだが、憎しみへの対処も必要なのだろう。

 

許すというのは難しいので、無理に考えないほうが良さそうだ。

 

自分が納得できる原状回復がなされないのであれば、そのことに囚われ続けても苦しいので、別の種を蒔き育てることに意識を向けて幸せを得るのが良いだろう。

 

人々の意識・社会・国際関係・世界などを変えるにしても、憎しみと共に生きながらでは不幸せだ。

 

自分の不幸を恨んだり、他者の不幸を願って、仮にそうなって満足感を得ても、幸せにはなれないだろう。

 

自分を救う意識だけでなく、犬や猫も含めて、他者への優しさや思いやりを持つことが救いにつながるはずだ。