「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。)

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決意を新たにっていうのは、前のは本当の決意ではなかったと自分で認めるのか、決意は継続中なのか分からないんですけど、チャレンジし続けなければならない個人的な状況なのよね。

 

あたしの場合は、物を捨てる基準を ときめくかどうかにすると、挫けてしまうので、今回は、使っている物の他は、あの世に一緒に連れていきたいほどの物かどうか、棺に一緒に入れてほしい物かどうか、避難するときに持っていきたい物かどうかを基準にしてみるわ。

( 棺は焼かれてしまうので、実際に入れてほしいとは必ずしも思っていないんですけどね。)

 

加齢、コロナ、自粛太り、サイトカインストーム、微妙な体調、地震。

 

年齢的には、終活はまだ早いかもしれないんですけど、早めの死もありえるから、仕方ないわ。

 

( 今日明日ならまだ大丈夫そうだけど、何か月先かだと困窮してしまうかもしれない世の中みたいだし。)

 

できれば、挫ける能力を中古で売りたいわぁ。

 

 

捨てるときに感謝するというのは、完全に物として扱えるものならいいかもしれないですけど、擬人的に捉えたり、愛着があったりすると、思いやりの対象に入ってくるので、感謝しながら見放すというような違和感が生じてしまうように思われるわ。

 

物でも供養的に思うと、手放す段階で利便を受けたことについて感謝するというのは、利己的に利用したあとで無慈悲になっているようにも思えてしまうでしょ。

 

救うことができなくて申し訳ないという気持ちは必要なんじゃないかしら。

 

優しさを向ける対象について、利用できて満足して捨てるというのでは、幸せになれないわ。

 

それでも捨てなければならないというのは、相手を救う能力が自分にはなくてどうしようもないということにならざるをえないみたいね。

 

 

自分の幸せとして感謝するというのは、自分の心の中での直接自分のためのことね。

 

他者に向けての感謝は少し違うけど、他者への感謝も、自分の幸せにつながっているみたい。

 

ただ、自分の幸せのため他者に感謝するということになってしまうと、外れていってしまうので、心のことは難しいわね。