「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。)

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平和主義と憲法に対する理解として、思い至ったというか … 。

 

 

前文について。

 

「 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して 」というのは、人権擁護の姿勢が欠けた特定の政権や勢力であっても信頼しなければならないというわけではないだろう。

 

信頼する前提が崩れていれば、信頼によってわれらの安全と生存を保持するという方策に拘束されるべきではないと考えられる。

( 同じような捉え方は既に示されているようだ。)

 

 専制と隷従、圧迫と偏狭を除去するというのは、人権侵害をなくすことと言って良いのだろう。

 

平和の維持に関して、日本の通常の貢献としては平和主義に基づく必要がある。

 

ただ、人権侵害の除去 ( 防止 ) について、戦いを完全に放棄するのが、日本国憲法の姿勢というわけではないのではなかろうか。

 

そして、それは自国の防衛という枠組みではなく、他国民も含めた普遍的な人権の擁護として捉えられるべきである。 

 

 

 

9条について。

 

国際紛争というカテゴリーに、人権問題への対処は属さないと解すべきではなかろうか。

 

人権問題は国際紛争とは別に存在するし、また、内政不干渉の原則が人権侵害の免罪符になるわけでもない。

 

( 人権問題を解決するための武力行使が良いというわけではなく、戦争を回避することが極めて重要であることに変わりはない。)

 

正義と秩序を基調とする国際平和 ( を誠実に希求し ) というのは、無秩序で偶然の平和や、人権侵害のような不正義を伴なう平和とは違うと考えられる。

 

公正さが保たれた国際平和を、誠実に希求しなければならない。

 

国際紛争について、あらゆる争いと解すると、「 国際紛争を解決する手段としては 」というフレーズを入れた意味がなくなる。

 

国際法上、侵略戦争が意識されるのかもしれないが、侵略戦争以外なら紛争解決のための武力行使をしても良いということにはならないし、人権問題がどのような形で存在するかは一様ではない。

( 主観的に領土の防衛と捉えれば国際紛争ではなく自衛戦争として認められるという考え方は、平和主義から外れるものだろう。)

 

戦闘・武器使用といった定義分けは、屋上屋を架したうえでの後付けの論理に思える。

 

 

日本国憲法の解釈としては、人権侵害に対して手をこまぬくべきではないことは明らかであることから、「 正義と秩序を基調とする 」にも、国際平和の内実に関して限定する意味があると解すべきであり、それによって「 国際紛争を解決する手段としては 」という限定とを合わせた、項全体としての整合的・一体的な読み方が可能となる。

 

「 前項の目的を達するため 」( 芦田修正 ) という表現は、「 ための 」にはなっておらず、目的を達するため として、戦力不保持・交戦権否認を打ち出している点から、戦わないことを原則とした平和主義ということになる。

 

ただ、平和主義といっても、憲法が依って立つ、平和を愛する諸国民の公正と信義への信頼という前提も込みで捉える必要があり、人権擁護のための例外的な状況で戦う余地は残していると考えるのが憲法の趣旨に適う。

 

立法事実の状況が違うと捉えるのが妥当かどうか分からないが、前提が崩れている状況では、条文の内容をそのまま実現することができないため、例外の状況に合わせながら、原則の趣旨を最大限 活かす必要があると考えられる。

 

9条は、人権侵害を厭わないような相手にまで向けたものではないと解すべきであるが、平和主義から全く離れるというのも違うだろう。

 

 

 

思考実験的に考えてみると、地球外生命の来訪があった場合、( こちらが軍事的に優位にあるかどうかも分からなければ尚更 ) 友好的に接したほうが良いだろう。

 

しかし、人権侵害を厭わないような相手であることが判明した場合 ( よく分からない場合も ) まで含めて、戦わないことを予め基本方針にしておくということを、人類は選択しないだろう。

 

逆に、人権擁護について信頼できる相手であれば、地球側の代表者に対して予め戦争放棄の縛りを掛けておくことも選択肢としてありえる。

 

相手に軍事的優位性があって、感染症などの問題もなければ、地球への移住を認めたほうが良い場合もあるだろう。

 

地球の領有権の防衛のための戦争によって地球人が大きな被害を受けて占領されるより、予め割譲を受け入れて命を守る選択をしたほうが良い。

 

( 移住を強いることが、思いやりに欠け不公正で侵略になるというようなことを、相手が気に掛けていなかったり、好戦的であれば、人権擁護の面で疑わしいので、判断が難しいが。)

 

 

 

国際紛争に関して、積極的平和主義と称した制圧主義で関わっていくべきではないが、基本的人権の擁護のために貢献することは、憲法に適う。

( 人権侵害の除去のために他国間の国際紛争に関わらなければならなくなることもあるだろうが、目的が異なる。)

 

憲法ではなく、自衛隊法の改正が必要である。

 

他国との一般的なトラブルを解決するために軍隊を保持することはできないが、人権侵害を除去 ( 人権を擁護 ) するための軍隊は保持できるということは、すっきりしないかもしれないし、転用・藉口の問題もあるが、平和主義と人権擁護を両立させる価値を優先したい。

 

こうした考え方をしても、自衛のための必要最小限度の実力組織は軍隊ではないというような、時間泥棒的 意味泥棒の被害は出ていないと思われる。

 

包丁を刃物と認めたうえで、料理を目的として保管するというたとえが、ここで適切かどうかは分からないが。

 

 

中国との関係で、従来から国民が居住していない島の領有権に関しては基本的人権に関わることではないが、人権擁護の姿勢が欠けた国が、経済力と軍事力で、勢力を拡大しようとする姿勢を見せる状況は、戦争の放棄の拠り所である、平和を愛する諸国民の公正と信義への信頼という前提が失われている。

 

一方で、国境や領有権に関する争いで戦闘が始まることで、国民の人権が害されるおそれが出てくるのであり、優先順位としては、領土・領空・領海を守ることより、国民の基本的人権を守ることが上位である。

 

武力衝突に至らず、不利益を被ることもないように、緩衝地帯として難しい対応が続くのかもしれない。

 

 

北朝鮮との関係では、国民が拉致され未解決であれば信頼できるものではないし、核やミサイルで脅かされれば、安全と生存を委ねる公正と信義という前提が失われているということになる。

 

 

ロシアとの関係では、北方領土占領の経緯・意図、冷戦後も返還しないまま世紀を跨いでなお侵略状態であること、内政での人権状況、クリミア半島の問題等、人権侵害を厭わない領土的野心を疑わざるをえないため、同上である。

 

ミャンマー軍の暴走を容認する姿勢も、人権面で信頼することが困難であることを示している。

 

安全と生存を具体的に委ねる先となっている国連について、安保理常任理事国の姿勢が信頼できない状況である。

 

日本の身勝手な判断で委ねることになったわけではなく、国際社会が責任を果たせていないということでもある。

 

 憲法制定後、アメリカが責任を果たせなくなった分は、直接的に影響があった。

 

 

国際テロ組織との関係では、人権侵害がなされる以上、それを看過することはできないし、同じように前提が失われている。

 

 

自由の価値を脅かす国や勢力の拡大を傍観すれば、自分たちの自由も脅かされるおそれがあり、対処について国民の不断の努力が求められる。

 

人権侵害を厭わない勢力に対する融和政策は、後のリスクが大きいだろう。

( 戦前の日本も、軍国主義の下、暴走した範囲では間違いなく人権侵害を厭わない勢力になってしまっていた。)

 

 

信頼できない国との間でも平和主義は重要だが、信頼を置く国際社会一般との関係での平和主義とでは違いがあると考えるべきだろう。

 

ただ、関係が悪化したら信頼できないということではなく、人権擁護の姿勢がある国であるかどうかだ。

 

平和主義に従って戦いを放棄した結果、侵略・占領されてしまった場合に、国民が人道的に扱われる可能性が大きく違うだろう。

 

人権擁護のための防衛は、通常の自衛権より抑制的なものであり、集団的自衛権については、その点について他国に理解してもらう必要がある。

 

 

憲法改正については、自分が理想とする国柄や、自分の想いだけで考えるべきではなく、これから先に生まれてくる人々のことを考える必要があるのであり、将来の人々への思いやりに基づかない改正がなされないように注意しなければならない。

 

 

以上、何の専門家でもなく、素人の落書きである。