正直に書いたり、言及すると、損になることもあるだろうが、あまり逃げずに向き合おうと思っている。
( 表現の自由・人権・道徳などに関連して、以下、趣旨がいくつかに ばらけるが。)
お尻や排泄物のキャラクターは、( それが好きな子どもも多いのだろうが ) 好きではない。
ただ、( 見たくない人が見ざるをえない状況にするのは良くないが ) 番組のひとつとして存在するくらいなら ( 見なければ済むので ) 良いのだろうとは思っている。
昔だったら、道徳的に否定されていたのかもしれない。
道徳といっても、多数派のそれと少数派のそれとに分かれることもあり、人権が関わって来る。
司法が人権を守ってくれるのなら安心できるが、裁判官の価値判断や多数派の裁判員に左右される余地があるし、最高裁は人事面で政治的多数の影響をより受けているのだろう。
冬期オリンピック北京大会のカーリングで、氷をこするとき、上からの映像で、ピーチなフォルム (の探偵?) が 出現することに気づいた ( 人も多いかもしれない ) 。
それを見たり、それについて言及するのはいけないことなのか、とか、表現方法の適切さについて、葛藤がある。
昨今は、スポーツで身体の一部分の撮影が問題になっていると思うが、じろじろ見られたりすることの迷惑や、肖像権の問題について、性的興味によるものだけを特別に扱うことには、疑問がある。
街中や電車内で、視線に気づいて、そちらを見ると、特に用があって声を掛けてくるのでもなく、視線を外さないでじっと見てくるような人がいたりして、不快感を感じたことがある。
逆に、視界の中にあるのに、見てはいけないものがあるというのも困る。
服の前を開けて歩いていた人が すれ違うときにだけ 前を隠すというのが、失礼に思えたりする。
道徳上、顔や上半身全体やネクタイは見て良いが、胸を見てはいけないというのは困る。
筋肉で盛り上がった男性の胸にも、目線は行く。
( 周辺視野が広かったり、細目だったり目が小さかったりすると、目の動きが目立たずに、見ることができるのだろうか。)
目立ったり、きれいだったり、可愛かったり、かっこよかったりすれば、目が行くのは、自然なことだ。
富士山が視界に入っているのに、見たら いやらしいと思われても困る。
ただ、対象が人の場合には、見られる側の迷惑がある。
富士山をじっと見ても富士山は困らないが、人をじっと見ると、見られる側には、尊重されるべき存在としての人がいる。
一方、見る側の性的な意識だけを問題にするのは、適切ではないように思われる。
性的な意識を非難すると、自分たちの存在の源泉が いやらしい意識ということにもなってしまう。
( 先祖を遡って考えるときに、神の存在を肯定する観点から、禁断の果実のような話が生まれたのだろうか。)
人間は、動物としての情動を滅しきれるものではないし、感情を伴なわない科学的な処置が善ということにもならない。
フィギュアスケートなどの衣装や姿勢や動作に関して、その場の現実を曖昧にしようとするような映像は、モザイク処理にしてしまうと、見せないという判断があからさまになってしまうため、境界領域としての対処と言えるのかもしれない。
( 見せている側・見える状態にしている側への保護が過剰になるのはどうかと思われるが ) 、関心の対象が人なので、見られる側の人が人権面で守られる必要がある。
性的なことについて 秘め事的な扱いがなされてきたのは、意識の面でのアクセルとブレーキが、人間社会の持続のために必要だったということなのかもしれない。