タブー的なことについて萎縮するのも、言論の自由・思想の自由の面で良くないので、天皇誕生日に際しての天皇のコメントについて触れてみる。
( 記者会見で、価値判断にも関わる応答があると、誕生日祝いでは済まなくなってしまうのは自明の理である。)
基本的人権の保障が、国民と天皇・皇族とで異なったり、天皇・皇族に人権保障が及ばないとすれば、それは身分権に変容しているのではないのか。
また、国の象徴という身分の人の考えに沿って、国民は努力義務を課されるのだろうか。
東京2020の開催で コロナ対策に集中できていなかったことは、今回の北京冬季五輪という他国での開催時と比較することでも明らかである。
( 米軍経路の感染など、日本政府は戦いを放棄せずに、統治権は放棄して、国民を守り切らない。)
五輪開催も政治的なことになっており、大会開会を宣する役割によって、開催する側に政治的に組み込まれている。
開催していなかったら 失われていなかった命があったのではないのかという点についての国民の想いは、無視されている。
商業主義化の問題も含め、象徴天皇は、五輪とも距離をとるべきである。
( 質問への応答であるとしても ) 親族のことで詫びる中では、正しさの訓示ではなく、お願いにすべきだろう。
多とするという表現は、感謝するという意味では良いが、評価するという分析的な視点が入り、客観的な基準を交えた分、主観的な感謝の想いより、上の立場から評価を下すような印象になるようにも思われる。
一般に、評価でも、賞でも、上げるというよりは、下す、下賜というような場合も多いのかもしれない。
人は、権威の下に ありがたく跪く存在でいるのが良いのだろうか。
不平等な基本的人権?