「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。)

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生前に対立関係があっても、亡くなったら不問に付して弔うというのが、日本の文化だという話は、政治家や政治評論家の互助会的な考えから、都合良く引用されているように思われる。

 

個人間レベルの悪感情と、政治レベルの対立関係とでは、違いがある。

 

 

歴史的に、戦や はかりごとで 敵を殺害した後、対立関係にあった政敵を赦すというのも身勝手な話であるが、祟りや怨念を おそれて弔うことが多かったのではないかと思われる。

 

そして、敵が存在しなくなり、政治的なマイナスが解消されれば、心置きなく弔うこともできよう。

 

しかし、現在は相手を殺害して済ませる制圧主義は問題なのであり、政治的に大きなマイナス評価を下しながら、その代表者が 国葬までの次元で 相手方に こうべを垂れるというのは、おかしな話である。

 

政治的・社会的な代表者が弔意を表すことは、個人がそうするのとは違うのであり、代表者の行動に対して批判を許さないという見解は、おかしい。

 

また、国葬のあり方と弔意を表することを分けるべきという主張は、無内容である。

 

個人が弔意を表することが禁じられているわけではなく、国葬を行なうかどうか、そこに出席するかどうかが問題なのであり、議論になっている事実を無視して国葬を行ない、出席するのは、権力側の恣意と それに共鳴した者の 他者への圧力を伴なう表現行為である。