「 優しさを主とし、知的・客観的に確かな 思いやりの心 」  それを推奨していますが ... らくがき帳になっています。 ( 何の専門家でもありません。)

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松田聖子『 花時計咲いた 』『 マイアミ午前5時 』

『 とんがり屋根の花屋さん 』

 

 

『 花時計咲いた 』

( 作詞 / 三浦徳子 、作曲 / 小田裕一郎 、編曲 / 信田かずお )

 

聖子ちゃんの 歌声や表現の 魅力 全開で 、楽曲全体も良い 。

 

 

『 マイアミ午前5時 』

( 作詞 / 松本隆 、作曲 / 来生たかお 、編曲 / 大村雅朗 )

軽快で、歌声の魅力も たっぷり 。

失恋気味?の曲なのだろうが、心地良いサウンドで、ファンの方々が 盛り上がるのが、当然と思える。

自分で歌うわけではないが、何度も聴いて慣れるまで、Aメロ各所2フレーズ目の出だしのタイミングが少し難しい気もした。

 

 

『 とんがり屋根の花屋さん 』

( 作詞 / 松本隆 、作詞 / SEIKO 、編曲 / 大村雅朗 )

 

題名で、「 とんがり 」や「 さん 」とあり、深刻な歌でないことが窺えるが、失恋後の話ではある。

 

ただ、失恋といっても、皆 誰しも、ずっと暗いだけで 日常を送り続けるわけではないので、淡い切なさとして 思い出になりながらの一場面について、ほんわりとした感じに仕上げられていて良い。

 

聖子ちゃん作曲で 穏やかさがあり、アレンジも 歌詞とメロディにとても良く合わせ 敷衍して、題名の雰囲気も まるごと 見事に表現し、楽曲の魅力や個性の輪郭を際立たせている。

 

 

聖子ちゃんは、おおらかさ、朗らかさが 魅力で、曲調によって違いは あっても、それが、どこか 歌の良さの素地になっているように思われる。

791

山口百恵 『 秋桜 』( 作詞 作曲・さだまさし )で、百恵さん、聖子ちゃん、明菜 ( 好意的な 呼び捨て です。) の聴き比べの動画を見た。

 

一見すると、聖子ちゃんが負けているように思う人もいるのかもしれないが、目を閉じて聴いてみれば、それが間違いであることが分かる。

 

百恵さんや明菜と比べると、その映像の聖子ちゃんは、外見上、必ずしも『 秋桜 』仕様には なっていない感じに思えてしまうのかもしれない。 ( スタジオの明るさなどにも違いがある。 )

 

 

百恵さんは、淡々とした感じの部分も多く、それが雰囲気を醸し出しているように思われ、サビの部分の美しさも 惹きたてている。

 

ただ、引退 間近での歌唱のほうが、表現に幅が ありそうだ。

 

 

明菜は、百恵さん系の歌声と、年齢・歌手歴の積み重ねが感じられるが、聖子ちゃんとは 逆で 同じ。

 

どういうことかというと、明菜は、表情が振れ過ぎにも思えてしまうので、目を閉じて聴いたほうが、歌声の魅力が 心に響く。

 

入り込んだ結果の歌唱であれば 仕方ないが、少し抑えたほうが、批判的なコメントも抑えられそう。

 

 

聖子ちゃんの歌唱は、持ち歌でもなく、ライブでの歌唱でもなく、テレビ番組の企画的なシチュエーションのような点も、不利になっているようだ。

( 歌い終わりで、ほっとしたような笑みを見せていることからも、番組のスポット的な面が窺われる。聖子ちゃんは、歌い終わりで 挨拶的に 微笑みを浮かべる傾向もある。)

 

歌手一般で言えば、自然に 表情と歌唱が釣り合っている場合もあれば、表情より歌唱に集中している場合もありそうだし、総合的な演技として上手いということもあるのだろう。

 

また、歌詞は、半世紀近く前の母娘を描写しているとはいえ、母親像の設定には 多少無理な面もあり、聴き手も歌い手も、違和感がある部分を捨象して、娘側の感傷的な想いや、特殊な事情に添って 受けとめていると思われる。

 

 

比較して 順位・優劣をつけて満足しても ( 分析自体は 悪くないが ) 、それは、歌を味わうこととは違う満足感ということになる。

 

他を否定することによって満足感を得ても、それは、相対的な喜びでしかない。

 

自分が好きな歌手の世界を堪能するだけで良い。

 

 

比較する流れに乗って気が付いたことは、歌唱力の評価に、表情が影響している面がありそうなこと。

 

厳しく評価するのであれば、音声だけに集中する必要がある。

 

実力派と評される歌手の評価は、表情の演技分を差し引かないとフェアでないかもしれない。

 

表情も込みで、舞台上や映像上の魅力を総合評価するのであれば、容姿の魅力も否定することは出来なくなる。

 

アイドル系の歌手は、演歌歌手のような表情作りはしないので、歌唱力の評価で不利になるカラクリとも言える。

 

 

私としては、厳しい評価を下す必要はないと思っている。

( 比較するなら、アンフェアではいけないというだけだ。)

 

声楽家であろうと、実力派であろうと、歌に身分や地位は関係ないし、ミスがあるかどうかも関係なく、ただ、魅力があるかどうか、心に響くかどうかが 大切であり、比較ではなく、聴き手の好みで楽しめば良いだけだ。

789『 恋人がサンタクロース 』

松田聖子『 時間旅行 』『 PEARL-WHITE EVE』

『 小麦色のマーメイド 』『 恋人がサンタクロース』

 

 

『 恋人がサンタクロース 』

     ( 作詞 作曲・松任谷由実 、編曲・大村雅朗 )  

 

聖子ちゃんが 歌っているのを、たぶん 聴いたことはあったとは思うのだが、アルバムを買って聴くということも なかったためか、これまでは ユーミンの印象だけになっていたようだ。

 

聴いてみたら、まったく自然に、聖子ちゃんの曲の世界。

( シングルカットされなかったのが 不思議に思える。大人の事情でもあったのかな?)

 

ドラムが効いていたり、アレンジも とても良い。

 

聖子盤が、お店や 商店街などで 一般的に流されたら、控えめに言って クリスマスが 1.5倍 楽しくなるだろう。

 

 

もちろん、ユーミンが 作詞・作曲で 楽曲の世界を創っている。

 

一般に、作詞者や作曲者 ( あるいは 制作サイド ) が、歌手より偉いように見る向きもあるようだが、その辺りは、権利者としての権限が 権威化されている面も少なからずあるように思われる。

 

楽曲の世界や価値は、作詞者・作曲者によるだけでなく、その表現者によって 命を吹き込まれ、表現者と共に生み出されていることを 忘れるべきではない。

( カバーでも 同じ。)

 

 

他の提供楽曲と違って、 松任谷由実での作詞・作曲者名にされている点については、既に発表されている曲について、別の作者名で出すことでの ややこしさ・誤解・混乱を避けるためだったのではないかと推察される。( メディアなども、曲の紹介で迷ったりするかもしれない。)

 

 

さて、サンタクロースが 。。。なことは知っていた少女が 年頃になり、「 となりのおしゃれなおねえさん 」が、大人になればわかると言っていた、彼をサンタクロースに重ね合わせるようなクリスマスを迎えることになった ワクワク感?ときめき?を楽しく描いた 素敵な楽曲。

 

 

「 本当はサンタクロース 」の意味を、なかなか掴めなかったのだが、サンタについて、プレゼントをくれたり、一緒にひと時を過ごす人というような現実のほうに話が傾いたのを、( 絵本の ) 空想の話へと (「 つむじ風追い越して 」など ) 少し引き戻して、楽曲をより楽しい世界に導いていると思われる。

 

意味としては、「 本当の 」「 本当に 」と同じだが、それほど 断定的にせず、「 本当は 」という言い回しによって、少し 秘密めいた雰囲気を醸し出したラッピングがなされ、ファンタジーが創り上げられている。

 

「 恋人がサンタクロース 」という表現には、たぶん二通りの意味があるのだろう。

 

一つは、サンタクロースが実在し、サンタクロースが、自分の恋人である場合。

 

もう一つは、実在するかどうかは別として、クリスマスにプレゼントを持ってきてくれる人というような意味でなら、彼氏 (こそ) がサンタクロース ( のような存在 )という場合 。

 

 

別の例で言えば、アンヌ隊員とモロボシダンが 恋人どうしであったのであれば、アンヌ隊員にとって、恋人がウルトラセブン。

 

それ以外の人にとっては、実在するウルトラセブンが恋人というわけではないけれど、自分を守ってくれる相手というような意味として、一般論的に、恋人 (こそ) がウルトラセブン。

 

 

どちらかと言えば、「 恋人は 」であれば、一般論のほうで、それと比較するような文脈で「 が 」とあれば、特定の対象について限定する意味になりそうだ。

( 「 は 」でも、恋人に「 私の ( 誰それの ) 」という意味が含まれていれば、「 が 」と同じになる。)

 

「 は 」にして 一般論を述べても、そのままでは「 恋人はサンタクロース 」という命題?が、成り立たずに意味不明となるため、比喩 ( たとえ) として成り立たせることになるのだろう。

 

「 が 」でも、比喩を考え合わせると、意味を確定することはできないと思われる。

 

文法のほかに、サンタクロースが実在すると捉えるかどうか、比喩かどうかで、解釈に違いが生じるので、ややこしいのだろう。

 

語順を入れ替えて、「 サンタクロースが恋人 」という表現であれば、( サンタが一人でも複数人でも ) 意味は確定するのだろうが、これも比喩を交えれば、文脈の解釈次第になるだろう。

 

曲名だけでは 明らかではないし、サビの部分でも、両方掛けていると とることも 出来そうだ。

 

ただ、後に続く「 本当は 」と合わせれば、一般論ではなく、歌われている特定の対象に限定した物語としてサビが歌われている印象になり、メルヘンティックな世界へと誘われるのだろう。

( 一般論だけを歌い上げられても、標語の熱唱のように思えてしまって、困惑するかもしれない。)

 

恋人と過ごすクリスマスを迎える高揚感に加えて、主人公の恋人を、実在するサンタクロースであるかのように描くことで、楽しいクリスマス・ソングに仕上げられている。

 

主人公の本気度は分からないが、ファンタジーとして、自分の恋人が本当はサンタなのだという想像を巡らせる心情を描きながら、聴き手にとっても、恋人がサンタのような存在であるかのように想わせることで、ときめきを分かち合える形になっているのかもしれない。

 

 

冒頭の「 おねえさんは 」が、「 が 」ではなくの「 は 」なのは、自然にそうなったのか、音感上のことだったりするのかなどは分からないが、通常、ナレーション的に、聴き手への説明の意識があれば、話し始めでは「 が 」になると思われる。

( それは、その後で、お姉さんが主人公に話している内容の「サンタが家に 」では、「 は 」ではなく、「 が 」になっているのを考え合わせれば分かる。)

 

意図したものか、結果的にそうなったのかは 分からないが、「 は 」にすることにより、聴き手への説明ではなく、主人公が 独白 ( モノローグ ) として 回想・述懐している物語の中に、聴き手が入っていく体裁になっている。

 

既知のことか未知のことかという理解で言えば、聴き手にとっては、初出で未知のことなので「が」になるところだが、独白なので、自分にとって既知のこととして「は」が使われているということになる。

 

 

サビの部分は、明日 訪ねてくる彼について、本当はサンタであると、主人公が空想を巡らせていると思われる。

 

物語の中の物語、劇中劇として、二重構造 ( 二階建て・入れ子・二層 ) になっていると考えられる。

 

おねえさんとの対話で、ここでの恋人は既知のことになっているため、「恋人は」ではなく「恋人が」になっていて、それが曲名にも、そのまま使われたということだろう。

 

 

おねえさんをサンタがつれていったきりの後、間奏で途切れることで、その後の、明日になれば私もきっとわかるという期待感を増幅させている。

 

聖子盤のアレンジは、謎や、サンタがソリで夜空を巡っているような雰囲気を表現しているようで、楽しさを より引き立てている。

 

「恋人がサンタクロース 」という曲名は、主人公が空想を巡らせた表現であり、楽曲は、その空想で 人々を楽しませる。

 

 

聖子ちゃんが 歌うと、何度でも 聴きたくなる。

 

映像の聖子ちゃんは、軽やかにステップを踏んで、跳ねたりもしながら ( 遊園地のコーヒーカップのようなステップとターンもあり ) とても楽しそうに歌っている。

( 「 つむじ風追い越して 」を、表現したりしているのかな。)

 

聖子ちゃんは、そんなに躍動的でもあったのか。

 

楽しい曲であることは分かっていたが、聖子ちゃんの魅力で、なんか もっと 楽しくなった。

 

( これから 自分が 何年 生きて、クリスマスが 何回 巡ってくるか 分からないが ) クリスマス・ソングは、聖子ちゃんが中心になる。

 

 

ワム!『 ラストクリスマス 』の カバーも 嬉しい。

 

終わりのほう、たぶん聖子ちゃんの声のバックコーラスの辺り、プラスαで とても良い。

 

また、クリスマス・ソングのメドレーなど、穏やかな曲を 聖子ちゃんの歌声で聴くと、ほっとする。

 

 

クリスマス・ソングには、楽しい曲・穏やかな曲・しっとりとした曲 ( 切ない曲・可愛らしい曲も ) などがあると思うが、年齢を重ねながら、それらを魅力的に歌ってきている。

 

聖子ちゃんは、50音全部に デコレーションを施せるようだ。

 

まさに、聖なる夜にふさわしい歌姫。

 

不世出という形容を使いたくなる。

 

才能や才覚のある人たちが関わったことを含め、長いスパンで見れば、「 松田聖子は ミレニアムの奇蹟 」。

 

松田聖子の良さが分かる環境にいられることに感謝したい。

 

 

『 小麦色のマーメイド 』

 ( 作詞・松本隆 、作曲・呉田軽穂 、編曲・松任谷正隆 ))は、

同じく『 金色のリボン 』の中にも入っているが、「 わたし裸足のマーメイド 」を、はたちのマーメイド と聴き間違えたりしていた。

 

曲の終わりが、「 好きよ 嫌いよ 」と、「 嫌い 」で終わっているのは、前の節の「 嫌い あなたが大好きなの 」「 嘘よ 本気よ 」と 順序が逆になっていて、譜割り?文字数?の関係もあったのかもしれないが、聴き手が 逆を突かれた感じにさせながら、( 嫌いと言っても好きなのが明らかなので ) 嫌いで 好きを表現する形にして まとめているのが 絶妙で、聖子ちゃんの魅力と相俟って、楽曲の情緒が 深まっている。

 

 

『 PEARL-WHITE EVE 』

  ( 作詞・松本隆 、作曲・大江千里 、編曲・井上鑑 )も

名曲だが、個人的に 80年代 終わり頃から 90年代は、音楽に耳を傾ける余裕が無かったので、イントロの歌い出し直前や間奏にある、ダダ~ン、ダダ~ン、ダダァ~ンという部分が、曲と切り離されて記憶に残っていて、それが 改めて曲全体と結びついた。

 

曲名から既に趣きがあって、魅き寄せられる。

 

プレゼントされたいなぁ~、 リボンほどきたいなぁ ~ 。

 

私は あなたのものよ 、って言われたいなぁ~。

 

あたためて身体ごと、って。

 

永遠にそばにいて、って。

 

( 私のために歌ってくれていると思っていいですか? )

 

終わりのほうで、

「 ピンクのパジャマ リボンほどいて  それが私の贈りものなの 」の後、被せるようにして「 壁のスキーの雪が解けて 滑り落ちてく 」が歌われて、「 今夜私はあなたのものよ 生まれたままで粉雪の夜 」につながっていて、「 溶けて 滑り落ちてく 」は、暗喩となっているのだろう。

歌詞・メロディー・アレンジ・歌声の融合。

 

映像の聖子さんは、歌い終わると少し恥ずかしげに見えるような気もする。

 

 

実りを迎えた恋の美しい曲でありながら、過去の経験による不安な気持ちと 恋しい気持ちが 併存する切なさもあり、全編にわたって、愛のささやきのようでもあるためか、魅力的な発声をたくさん聴くことが出来る。

 

まるで、宝石がちりばめられているかのよう。

 

この曲に限らないが、どの曲が好きかというのと同じように、どのフレーズ・どの一音・どのブレスが 好きかも 語り合えるだろう。

 

松田聖子は、ヴォーカルの ストラディバリウス なのか。

      ( 神様から贈られた、のどの ストラディバリウスを 情緒豊かに 奏でる 名演奏者 )

 

もちろん、人は 楽器ではないので、キャンディ・ボイスも含め、声の変化はあるが、生涯を通してのヴァリエーションとして受けとめることが出来る。

 

太陽の歌声から、春の陽ざし、月の ささやき まで。

 

名器を 超える。

 

女神さまの歌声。

 

 

さて、サンタクロースが  靴下に入れにくい プレゼントは、イブの歌のCDかな。

 

うれしいけど、早めのほうがいい。

 

紅白歌合戦は、どうだろか。

 

お正月も、というか、イブの歌は、旬のもの、期間限定的か。

 

でも、聴いて 夢に浸るのは、年中 OK 。( なので、どちらも、welcome。)

 

悲しめの曲は、むしろ時季を外して聴いたほうが、心に ゆとりがあるので良い。

 

 

 

『 時間旅行 』

  ( 作詞・松本隆 、作曲・SEIKO 、編曲・井上鑑 ) も

 

名曲。

 

 視線を合わせる ごく短い時間を、主人公が「 一瞬だけの時間旅行 」と表現し、想いが溢れる。

 

美しいメロディーも伴なって、素晴らしい。

 

哀しく 切ない、永遠の一瞬。

 

曲の終わりのほうの「時計の針は戻せないのね 」で、切ない歌声が響く。

 

今生には、必ず別れが伴なう。

 

「 もう一度だけ瞳で会話して 」は、会釈の時のほかに 時間旅行が出来たのか分からないので、聴き手が想像すれば良いのだろう。

 

そして、主人公は「 一瞬だけの時間旅行 」というふうに、得ることが出来た機会について、素敵に捉えることが出来ているので、きっと、哀しさを 幸せへと昇華させることが出来ると思われる。

 

メロディーが、美しくて穏やかなことも、それを感じさせる。

 

 

Aメロでの演奏なども ( 伴奏というか、アレンジというか ) 、きれい。

 

映像の聖子さんも、美しい。

 

聴くほどに、好きになっていく曲。

 

人気曲 上位との 差があるとすれば、シングル化されていない ( CMとのタイアップがあったわけでもない ) という ハンデ分だけだと思う。

 

切なくも、穏やかで、愛おしさと 優しさに 満ちていて、仮に この一曲だけであったとしても、松田聖子を好きになっていたに違いない。

 

 

フィギュアスケートの 伊藤みどりさんが、カルガリー・オリンピックのエキシビションの曲として 採用でしていた

(『 タイム・パッセージ 』作曲・松田聖子 ) というのも 嬉しい。

 

その選択が、ご本人の主導によるものなのか 関係者の方の勧めによるものなのかは 分からないが、著書名にも

『 タイム・パッセージ ~ 時間旅行 ~ 』として 採用されている。

( 残念ながら、本を読むことは 出来ていない。)

 

 

さて、ひとつだけ 主人公に ( 愛情を込めて ) つっこみを入れたい気持ちを抑えられなくて、

 

「好きよ今もたぶん」って、

 

たぶんな わけない やろぉ~ 。

 

( 聖子ちゃんの歌唱と相俟って、すりガラス越しな感じが 情緒を深めていることは確かなので、そのままで良いのだが )

 

 

松田聖子さんの魅力を知っているが、これから知っていく作品も たくさんある。

788

自由主義の否定は論外だが、たとえ、自由主義の下、民主的に選ばれた権力であったとしても、禁じられるべき権力の行使がある。

 

それを 明確に確立していかなければならない途上にあるため、犠牲者を出してしまう 今の世界。

 

 

民主主義を否定することは 禁じられなければならないし、民主政治のプロセスを曲げてしまうことも許されない。

 

権力保持のための、ずる賢い抜け道を作ろうとする段階で、阻止する必要がある。

 

 

目的を達するためであったとしても、アンフェアであったり、人の命を犠牲にすることは出来ないのが、自由主義であり、民主主義である。